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伊賀鉄道の橋とトンネル

 今年7月、伊賀鉄道の4つの施設が国の登録有形文化財に認定されました。ひとつは9月26日にご紹介した上野市駅舎です。残りの3つは線路の上に架かる橋と下を潜るトンネルです。いずれも大正時代の建設でアンティークな趣を湛えています。
① 桑町跨線橋 総煉瓦造りのアーチ橋です。欄干の煉瓦にも傷んだところがありません。
② 小田拱橋 下部は御影石積み、上部は煉瓦積みです。「拱橋」とはアーチ橋のことを言います。
③ 小田第二暗渠 人だけが潜れる狭いトンネルです。石積みの上に石桁の架かる珍しい構造です。

伊賀鉄道G

閑話「古墳」その3

 4世紀から6世紀のわずか300年ほどの間に、16万基もの古墳が生まれるのである。ヤマト朝廷に係るものが900基、残りは各地に割拠した豪族(農民でなく武人であろう)の墓である。これをどう考えたらいいのだろうか?弥生の民の次に渡って来たのはどんな人たちだったのか?
 日本の一部の人たち(または多くの人たち)は、“日本列島の原住民が大陸から伝わった文化を取り入れて、土器も変えたし食料もお米に変えた”という考え方をもっている。確かに縄文時代人が弥生人と交流する中で、新しい生活様式を取り入れたりしたことはあったであろう。混血もしたと思う。

古墳L

 しかし、生活を根底から変えるような文化の進歩は、人の移動なしにはあり得ないのである。例えば、それまで「甕棺」を使用していた死者を葬る方法に、突然「前方後円墳」などの古墳方式を取り入れるだろうか。文化だけの伝搬ではなく、そういう文化をもつ人々が渡来したと考えた方が理に叶っている。
 ここからは私の勝手な古代史観・・・古墳時代は、大陸を追われた部族が次から次へと日本に渡って来た時代である。大きな集団も小さな集団もあったことだろう。各地に分かれて、先住の弥生の民(稲作農民)を支配して、その地の豪族となった。山住みの縄文人・平野の弥生人・支配階級の武人、3層構造が「古墳時代」だと思う。古墳をつくったのは支配階級の人たちである。

古墳K

 そこへ、かぶさるように大物の部族がやってきた。「天孫族」である。この集団は大陸でも有力な「国」で、魏・呉・蜀に匹敵するような大国(例えば「越」とか「楚」クラス)だったと思う。やはり九州(高千穂)に降臨し、勢力を蓄えたあと東へ侵攻する(神武天皇の東征)。出雲から「国譲り」を受け、畿内の豪族と戦って勝利する。
 ヤマト朝廷の成立である。その後は、古事記に登場する「天照大神」「須佐之男命」「倭建命」の挿話のような経過を経て、日本全土を統治するようになったのである。16万基もの古墳があることを知り、その理由を考えるうちに妄想のような話になりました。「古代史ロマン」と考えてお許しください。

閑話「古墳」その2

 日本列島に人が住むようになったのは、今から数万年前の旧石器時代である。そのころは大陸と地続きで、ゾウやワニ(10月4日の足跡化石参照)その他の動物と一緒に渡って来たのであろう。ほかにも、南方から丸木舟や筏で島伝いにやってきた人たちもいるという。(柳田国男「海上の道」)
 人々は主として狩猟・採集・漁撈によって生計を立てていた。ただ時代が進むにつれ、サトイモやコンニャクのような根菜やソバ・アワといった雑穀類も栽培していたらしい(照葉樹林文化論)。照葉樹林やブナ林の山中、川辺が生活空間だった。このころの土器は縄目模様が特徴なので「縄文時代」という。

古墳I

 紀元前3世紀ごろになると、稲作を生業とする人々が揚子江流域からたくさん渡ってきた。当時の大陸は大きな国々が対立し、ついには秦の始皇帝が全土を統一する時代である。北方の騎馬民族や中原の漢民族に押されて、揚子江の稲作農民は西の山へ登るか舟で揚子江を下るしかなかったのであろう。
 日本海に船出し、日本列島(まずは九州)に渡り着いた人々は、そこが温暖な気候で、河口の三角州は稲作に適しているのでホッとしたことだろう。しかも先住の民は、自分たちと同じような顔をした縄文人で、住む場所も山と平野に住み分けるので、それほどの争いもなく受け入れてくれたのだと思う。

古墳J

 稲作の民は九州から瀬戸内沿岸(出雲も)、畿内から濃尾平野まで広がっていった(後には三河から関東まで)。紀元前3世紀から紀元3世紀のこの時代を「弥生時代」という。水路や田をつくり、家族や同族の仲間で集落をつくって平和に暮らしていた。次第に、小国家ほどの組織には発展したのだろう。
 ところが、3世紀から4世紀は激動の時代である。大陸では漢が滅び「三国志」の時代になる。群雄が盛衰を繰り返し、魏・呉・蜀の3国が鼎立してせめぎあった。これに呼応するように日本列島にも大きな変革が起こる。「古墳時代」に突入するのである。

閑話「古墳」その1

 最近、3つの古墳を見たので、いったい古墳はいくつあるのだろうかと調べてみた。ネット情報によれば、その総数は16万基を超えるという。その中で、皇室に関係するものを「陵墓」といい約900基ある。「陵(みささぎ)」は歴代の天皇・皇后たちの、「墓(はか)」はその他の皇族のものである。
 先日ご紹介した東海市の「岩屋口古墳」や伊賀上野の「辻堂古墳」は、それぞれの地域を治めた族長のもの。伊賀神戸の「息速別命墓」は皇室関係のもの、垂仁天皇の皇子なので「墓」となっている。正面の鳥居の横に、墓の名前と宮内庁管理であることを示す看板が立っていた。

古墳G

 かつて京都盆地の東隣、山科を歩いたことがある。琵琶湖疏水の流れる山裾に天智天皇の「陵」があった。天智天皇は中大兄皇子のとき、中臣鎌足とともに曽我氏を滅ぼして、大化の改新のきっかけをつくった天皇である。唐や新羅に対する「白村江(はくすきのえ)の戦い」を主導し、後に滋賀・大津の宮に遷都した。大津に近い山科に葬られたのも、うなずけることである。石段の上の礼拝所に石柱があり、「天智天皇山科陵」と刻まれている。

古墳H

 16万基の古墳を県別に見てみよう。①トップは兵庫県で約1万9000基が発見されている。②続いて鳥取県が1万3500基、③京都府が1万基と続く。10位までを福岡、瀬戸内沿岸、畿内の各県が占めている。⑪三重県が約7000基、⑫岐阜県が約5000基、⑰愛知県は約3000基で17位である。北海道と青森県、沖縄県ではひとつも発見されていない。
 全国の神社の数が約9万か所、お寺が8万か所、合わせて17万か所。これと比べても、古墳の多さに驚いてしまう。

「息速別命墓」と「城之越遺跡」

 伊賀上野市の南部、伊賀神戸近くの2つの遺跡を見た。「息速別命(いこはやわけのみこと)の墓」と「城之越(じょのこし)遺跡」である。地形的には、いずれも丘陵地に近い水田の中にある。場所を探すのは一苦労だったが、田の中にこんもりとした森が見えたので、それと知ることができた。
 息速別命は、第11代垂仁天皇の皇子で阿保親王とも呼ばれていた。墳墓の周りには、水田との間に跨げるほどの幅の水路がある。形は正方形、航空写真で見ても「方墳」であろうと思われる。築造されたのは5世紀末から6世紀初頭と考えられている。宮内庁所管との看板が立っていた。

阿保親王マップ

 城之越遺跡は、古墳時代前期(4世紀後半)のものとされる「大溝」や「四面庇付大型掘立柱建物」4棟が確認されている。出土遺物としては、多量の土器・木製品・植物遺体が見つかっている。土器では須恵器や韓式系土器、木製品は飾弓・刀形などの祭祀具、植物では桃や瓢箪が検出された。
 「大溝」は、3か所の井泉からの湧水を引いた流路であり、法面には貼石が施されている。合流部には立石を配し、溝に下りるための階段が設けられている。中央部に楕円形の広場があり、祭祀の行われた場所と推定される。日本庭園の原型とも考えられており、国指定の名勝・史跡になっている。

阿保親王G


季節通信83野菊

旧大山田村の「辻堂古墳」

 せせらぎ運動公園を少し上流へ上った旧大山田村(現伊賀市)に「辻堂古墳」がある。元々は、径20mほどの円墳あるいは前方後円墳だったと思われるが、今は、土盛りが取り払われ、さらに天井板も持ち去られて横穴式の石室が剥き出しになっている。玄室の奥には、2つの石棺が残っている。
 床面全体に湿気を防ぐための敷石を並べ、羨道部には排水溝を備えている。出土した土器については、二つの時期があると考えられている。第一次の埋葬は6世紀後半、第二次は7世紀後半である。5m近くある石室から考えると、被葬者の家系はこの地域の有力な豪族だったと思われている。

辻堂古墳H

 「辻堂古墳」と呼ぶのは、水路と農道を挟んだ向かい側にお地蔵さんの入る「辻堂」があるからであろう。お堂の前に大きくて平たい石が据えられているが、形から見て玄室の蓋だったのでないかと思われる。ちなみに「辻」とは道路の交差するところをいう。
 お堂の軒下に、石地蔵尊についての由来が杉板に記してある。古い文体だし文字も薄れているので判読しづらいが次のように読める。“長年の洪水の影響で、用水路の線形を変えるために「塚」の移動をしたところ祟りがあった。卜者が言うのにお堂を建立すればよいというので一宇建立した”“当初は藁葺きであったが、宝暦12年(1762)瓦葺きに再建した”

辻堂古墳G


季節通信81鍵屋の辻

大山田湖(古琵琶湖)湖底の足跡遺跡

 三重県西部の山に囲まれた伊賀市や名張市一帯は、上野盆地あるいは伊賀盆地と呼ぶ。この地形は、400万年前は大山田湖(古琵琶湖)の底だったという。湖は形を変え、位置を変えて40~50万年前に今の琵琶湖になった。濃尾平野や伊勢湾が、大昔「東海湖」だったのと同様であろうか。
 西へ流れる「服部川」の川沿いに「せせらぎ運動公園」がある。その一角に湖だったことを証明する遺跡が発見された。ゾウやワニの足跡化石である。平成5年(1993)の台風14号により川床が浸食され、今まで土に埋もれていた化石が表面に現れたのである。

ゾウの足跡マップ

 広場と広場の間に疎林があり、芝草の中に100㎡くらいの硬い岩盤が露出しており、そこに円形やモミジ型の窪みがある。直径60cmほどで深い窪みはゾウの足跡である。年代から、ステゴドンの仲間で「シンシュゾウ」のものと推定されている。
 小さくて鳥の足跡のような窪みはワニが歩いた痕跡と考えられている。尻尾を引きずった跡も見ることができる。「大山田湖」の周辺に水を飲みに来たゾウなどの動物や、それを狙うワニが歩き回っていた様子を彷彿とさせる。当時は今より暖かい亜熱帯性の気候であったことも知ることができる。


季節通信84栗拾い


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ブログを始めるに当って

 私ども「中部復建」は、戦後から一貫して土木施設の計画設計に携わってきました。地域の皆さんに、より身近に土木を感じて頂きたく先人が残してくれた土木遺産等を訪ね歩き≪中部の『土木文化』見てある記≫として、皆さんに紹介していきたいと思い、このブログを発信する事としました。  

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プロフィール

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森 田 高 尚
昭和21年6月 半田市生まれ
平成12年 東山植物園長
平成17年 名古屋市緑地部長
平成19年 中電ブルーボネット園長
平成24年 中部復建技術顧問
技術士:(建設部門・環境部門)
公園管理運営士 
著書:『園長さんのガーデンライフ』
監修:『世界一うつくしい植物園』
 (著者:木谷美咲)
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