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閑話「古墳」その7(溜池)

 閑話を終わるつもりだったけれど、志段味地区の航空写真を見ていると、もう一つ語りたくなる。

 科学的、学問的知識はないが、「豪族たちは、農民を指導して溜池や農業用水路をつくったのではないか」と述べた。地図を眺めると≪庄内川―沖積平野(氾濫原)―河岸段丘崖―台地ー丘陵地≫ といった地形の連なりが見えてくる。航空写真を下敷きにして配置図をつくってみた。(労作です!?)
 ◆沖積平野…庄内川に沿って、両岸に氾濫原が広がっている。格好の水田地帯である。
 ◆河岸段丘…高低差5~6m(建物1階分ほど)の崖が続いている。
 ◆台  地…河岸段丘と丘陵地の間の高台。農耕地には不向きで、豪族たちの住居だった?
 ◆丘 陵 地…洪積層の樹林地。木材や落葉堆肥の供給地。(現在はゴルフ場が造成されている)

しだみ航空写真X

しだみ溜池
しだみ断面3


 ■溜  池…丘陵地の谷間に堤防を造り、水を貯めて水田や畑を潤した。(いつできたか知らない)
 ■農業水路…溜池から流れる川の水を水平方向に導き、台地の上の田や畑に引いた。荒地を開墾      
          して生産力を高めたかもしれない。
 ■古  墳…台地の上や、東谷山の山頂にも古墳を造った。
 これらの土木工事は、高度な知識と人夫を使役する統率力が必要であり、まさに豪族がその任を果たしたのではないか?農民にとって豪族は、支配者としてだけでなく、自分たちにも役に立つ、意義のある存在だったと思われる。
 ■石ひろい池…面白い名である。ひょっとしたら古墳の葺石(ふきいし)を採取した跡地かも知れない。 

 思いのまま書きましたが、「古代史ロマン」と考えてお許しください。

シダミューY


閑話「古墳」その6(竪穴式住居)

 閑話の最後です。ちょっと脱線して私の古くからの持論を語らせてください。「竪穴式住居」という言葉についてです。・・・

 私が小学校低学年のとき先生から、「人は右を歩きます。車はどこを走るでしょう?」という問題が出ました。私は「真ん中」と書いてバッテンをもらいました。しかし納得がいかない。「だって、車はいつも真ん中を走っているじゃない。車が左で人が右だったら正面衝突をしちゃう」と思ったのです。田舎の狭い道路だったので、二車線などなく車は真ん中を走っていたのです。
 こんな頑固な子供だったので、中学ぐらいのときに「竪穴式住居」というのを習ってヘソを曲げた。「だって(また!)、横穴なら分かるけれど、縦の穴だったら雨にぬれるし水が溜まってしまう」と思ったのです。大人になって、竪穴式住居でも4本柱を立て、丸太を差し掛けて藁で葺くことを知りました。すると今度は、そのネーミングが気に入りません。「穴と言ってもわずかに窪ませるだけだし、何と言っても立派な屋根があるではないか。外から見れば立派な藁葺きの建物なのに穴とは?」と。

竪穴I

 もう一度、岩倉市史跡公園の2つの建物(2020・7・28に掲載)を見ていただきたい。片や「藁葺き入母屋造りの家」であり、片や「竪穴式住居」です。柱や壁(軸組)の上に「小屋組」が乗れば「建物」で、同じような「小屋組」なのに地面から直接立っていると「穴」というのはおかしいと思います。
 たぶん、理由は分かっています。「竪穴式住居」と命名したのは考古学者だからだと。彼らは発掘が専門です。住居跡を調べていると窪んだ住居跡が発見されたのです。鍾乳洞や岩屋に住んでいた人たちを「横穴式住居」と呼んでいたので、これは「竪穴」だと思ったのでしょう。腐って消えてしまった木材や藁は目に入らなかったのだと思います。(失礼!)

 しかし今は、考古学者だけでなく、建築家や民俗学者、生態学者なども古代住居を研究しています。そろそろ名前を変えて、「窪地式入母屋造り」とか「低床式」などという名を付けたらいかがでしょう。これなら「平地式」「高床式」とも一貫性があると思います。
 もう一度、「竪穴式住居」のイメージ図を見て下さい。赤い矢印の段差が「穴」に見えます?

竪穴K

閑話「古墳」その5

 「しだみ古墳群ミュージアム」に、興味深い埴輪が展示してあった。家の形をした埴輪である。これを見ていて、ある建物を思い出した。伊勢神宮で見た「外幣殿(げへいでん)」である。伊勢神宮特有の「唯一神明造り」という形式の建物である。
 切妻平入り、掘立柱の高床式で、茅葺き屋根の頂部に「鰹木(かつおぎ)」と呼ぶ丸太を乗せる。埴輪を見ると、高床式ではないが柱と壁があり、切妻屋根である。鰹木の様子もそっくりである。これは、古墳をもたらした支配者武族の人たちの建物であろう。

竪穴式G

 これに対し庶民(弥生時代からの稲作農民)の家は、これもパネル展示により知ることができる。いわゆる「竪穴式住居」である。地面を一段低く掘削し、4本柱に丸太を差し掛けて藁や茅で葺く。中で囲炉裏を焚くので、煙出しの穴が必要である。屋根の型式は「入母屋造り」である。
 この形式は、縄文時代にもあったと見られており、弥生時代を過ぎてかなり後々まで農家の生活空間として使い続けられていたという。下の写真は「岩倉市史跡公園の建物」(2020・7・28に掲載)である。「竪穴」と言いながら、立派な屋根のある「建物」なので、私はこの呼び方に疑問をもっている。
 その件は、次回で・・・
 
竪穴式H

閑話「古墳」その4

 志段味大塚古墳の後円部墳丘頂部や中腹、前方部や造り出し部の上にたくさんの埴輪が並べられている(発掘された現物の複製品)。鶏形や水鳥形、大きな甕や皿のような形のものもある。ミュージアムには、巫女の姿や馬の頭部、家の形をした埴輪も展示してあった。
 この古墳からの出土ではないけれど、人の形をした埴輪から推定した当時の服装を描いたパネルが展示されている。「えらい人」「武人」「庶民」などである。さらに、等身大の模型があった。鎧を着て刀をかざした「王」の姿である。

埴輪と副葬品

 この展示を見て、私は自分の古代史観に自信をもった。「庶民」は弥生の稲作農民(紀元前3世紀~紀元後3世紀に渡来)であり、「えらい人」や「武人」は新たに(4世紀以降)に渡って来た武族集団であると。馬上の「王」は、志段味に君臨した支配者であり、古墳に埋葬された人であろう。
 木棺の中からは多くの副葬品が見つかっている。当時の最先端と思われる武器や甲冑、馬具や金色の金具で飾られた帯、鈴のついた鏡などである。これら優れた副葬品からみると、庄内川流域の有力首長であったこの王は、ヤマト王権と深い関係があったものと考えられている。

服装

志段味大塚古墳

 「大塚・大久手古墳群地区」最大の古墳、全長51m、「帆立貝式」の形状である。くびれ部に1か所「造り出し」も見られる。帆立貝式と呼ぶのは、前方後円墳に比べて「前方」部分が小さく、上から見るとホタテガイの形に似ているからである。
 現在は、造られていた当時の姿に復元されている。階段も整備されていて、墳頂まで登ることができる。上に登って見ると、この墳丘の構造がよく分かる。「後円部」は、思ったより傾斜がきつく、新しく付け加えた階段も急勾配である。それに比べ、「前方部」は低く平坦である。

大塚古墳変更3


 案内看板に、発掘当時の写真が掲示されていた。葺石の様子や、円形に並べられた埴輪の様子がよく分かる。これまでに見た「古墳」というと、こんもりとした森に被われたイメージであるが、こうして造成当時の姿を見ると異なった印象を受ける。これは葬送の場なのだと。
 「後円部」の墳頂部には、2つの埋葬施設があった。ともに上から穴を掘り、穴の底に木棺を据えて遺骸を納めてある。木棺は、直径1mを超すような針葉樹を縦に割り、中をくり抜いた「割竹形」である。頂上に複製が展示してあった。


季節通信85赤まんま

志段味古墳群

 まだ、古墳にとり付かれている。先日高蔵寺へ行く用事があり、その後で「歴史の里・しだみ古墳群」を訪ねた。「しだみ古墳群ミュージアム」を含むこの野外博物館(?)は、7基の古墳を体感できるように、芝生と園路で綺麗に整備されている。
 東谷山の西山麓、庄内川を見下ろす河岸段丘の上に、名古屋初の前方後円墳が造られたのは4世紀中ごろ以降である。全長115mという巨大な古墳(白鳥塚古墳)が忽然と姿を現した。以後7世紀までに、この一帯に数々の古墳が築かれ、これまでに66基が確認されている。

しだみ古墳マップ

 「ミュージアム」に濃尾平野全般の古墳群配置図が展示してあった。木曽三川がつくり出す広大な三角州を取り囲むように、河岸段丘や台地に分布していることが分かる。豪族たちは高台に生活し、川の氾濫原や自然堤防で稲作を営む農民を上から支配していたのだろう。
 支配者層は遅くに大陸から渡って来たので、先住民より高い文化をもっていたと思われる。古墳を造成できる技術から考えると、大規模な農業用水路や溜池などの整備を指導したかもしれない。豪族は武力だけでなく、文化的叡智によっても人民を支配したものと思われる。

しだみ古墳G

しだみ古墳H

豊橋市「二川宿の枡形」

 古来より交通の要衝であった二川(ふたがわ)は、慶長6年(1601)に江戸幕府により宿駅と定められた。開設当初は二川村と大岩村の二か村で業務を行っていたが、正保元年(1644)に二川村を西に、大岩村を東に移動させ、二川宿と加宿大岩として再構成した。
 二川宿は、江戸から数えて33番目の宿場町である。東の白須賀宿からは1里17町(約5.8km)西の吉田宿(豊橋)とは1里20町離れている。宿場の長さは12町16間(約1.3km)、本陣と脇本陣がそれぞれ1軒、旅籠屋が38軒あったという。天保14年(1843)の記録による。

二川宿枡形G

 中央近くの本陣を挟んで、東西2か所に「枡形」がある。枡形とは、お城の門と門の間にある方形の広場のこと。出陣のときに兵が集まるところであり、侵入した敵の動きを妨げる効果もある。宿場町の枡形も、道を屈曲させて見通しを妨げる効果はあるが、方形ではないので「鍵の手」と呼んだ方がいいと思う。
 二川宿では、「鍵の手」の痕跡が2か所とも見事に残っている。さすがに車の通行のため曲線になってはいるが、あきらかに鍵の手である。古い絵地図にも描かれている「高札」(矢印)の跡もある。高札とは、法令を板面に記して、往来に掲示したものである。ここでは跡を示す石碑が立っている。

 この二川宿は5年前にも訪れたことがあり、「本陣」(2015・09・13)「旅籠と商家」(同09・19)としてブログを発信しましたので見てください。

松尾芭蕉 生誕の家

 松尾芭蕉は寛永21年(正保元年=1644)に、この伊賀上野の地で生まれた。伊賀鉄道上野市駅から東へ500mほどの所に、その生家が残っている。格子窓のある二階建て、切妻瓦葺屋根の町屋造りである。黄土色で瓦の乗る土塀が長くて印象的、玄関口には石柱と歌碑が立っていた。
 残念ながら現在、建物改修のため中へ入ることはできなかった。門から覗き込むと、玄関前の庭にバショウの木が植えてある。芭蕉が江戸に住んだとき深川に居を構えたが、門人からバショウの木を贈られたのでその庵を「芭蕉庵」と名付けた。さらに自身も「芭蕉」と号するようになった。

芭蕉生家G

 芭蕉は、滑稽や諧謔を主としていた「俳諧」に疑問をもち、「蕉風」と呼ばれる芸術性の高い句風を確立した。後世には、「俳聖」と呼ばれるまでになった。現在公園となっている上野城の一角に、生誕300年記念の「俳聖殿」が建っている。芭蕉の旅姿をイメージした個性的な建物である。
 元禄2年(1689)、45歳になった芭蕉は弟子の曾良を伴い「おくの細道」の旅に出る。陸奥・越後・越前などを巡り、最後は大垣で旅を終える。我々も知る数々の名句が生まれた。生家前の句碑は「古里や臍の緒に泣く年の暮れ」とある。自分が生まれた時の「臍の緒」を見た感懐を詠んでいる。


季節通信82バショウ

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ブログを始めるに当って

 私ども「中部復建」は、戦後から一貫して土木施設の計画設計に携わってきました。地域の皆さんに、より身近に土木を感じて頂きたく先人が残してくれた土木遺産等を訪ね歩き≪中部の『土木文化』見てある記≫として、皆さんに紹介していきたいと思い、このブログを発信する事としました。  

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プロフィール

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Author:FC2USER480348EQK
森 田 高 尚
昭和21年6月 半田市生まれ
平成12年 東山植物園長
平成17年 名古屋市緑地部長
平成19年 中電ブルーボネット園長
平成24年 中部復建技術顧問
技術士:(建設部門・環境部門)
公園管理運営士 
著書:『園長さんのガーデンライフ』
監修:『世界一うつくしい植物園』
 (著者:木谷美咲)
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