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阿智村の浪合神社と尹良親王御陵墓
中学・高校時代、歴史の年号を覚えるのが苦手だった。数学や物理の問題を解くのは楽しかったけれど、国語の漢字など暗記ものが好きになれなかった。単に、勉強時間が足らなかっただけかもしれないが。日本史の中でも「南北朝時代」というのは特に分からなくて、今でも実態が掴めない。
南北朝時代とは、源頼朝が樹立した鎌倉時代が終焉し、足利尊氏の室町幕府が始まる14世紀中ごろの約60年間をいう。後醍醐天皇が吉野に逃れて開いた南朝に対し、京都の朝廷を北朝といい、武家を巻き込んで争いを続けた。後醍醐天皇は自らの皇子を各地に派遣して内乱をくり返した。

尹良親王(ゆきよししんのう=1364~1424)は後醍醐天皇の孫で、父・宗良親王(むねながしんのう)の討幕の意思を継いで東国各地を転戦した。応永31年(1424)三河・足助へ向かう途中、阿智村・浪合のこの地で、北朝方と戦って敗れ(「浪合合戦」という)自害したという。
尹良親王を祭神とする浪合(なみあい)神社は、延宝年間(1673~1681)に造営された。石造りの鳥居から続く長い坂の参道には、大きな杉の木が並んでいる。社殿の左奥の樹林の中に、宮内庁管理の「尹良親王御陵墓」がある。親王の御首(みぐし)が埋められた場所という。

南北朝時代とは、源頼朝が樹立した鎌倉時代が終焉し、足利尊氏の室町幕府が始まる14世紀中ごろの約60年間をいう。後醍醐天皇が吉野に逃れて開いた南朝に対し、京都の朝廷を北朝といい、武家を巻き込んで争いを続けた。後醍醐天皇は自らの皇子を各地に派遣して内乱をくり返した。

尹良親王(ゆきよししんのう=1364~1424)は後醍醐天皇の孫で、父・宗良親王(むねながしんのう)の討幕の意思を継いで東国各地を転戦した。応永31年(1424)三河・足助へ向かう途中、阿智村・浪合のこの地で、北朝方と戦って敗れ(「浪合合戦」という)自害したという。
尹良親王を祭神とする浪合(なみあい)神社は、延宝年間(1673~1681)に造営された。石造りの鳥居から続く長い坂の参道には、大きな杉の木が並んでいる。社殿の左奥の樹林の中に、宮内庁管理の「尹良親王御陵墓」がある。親王の御首(みぐし)が埋められた場所という。

岩倉神社の「農村舞台」
西中金駅北側の山裾に、岩倉神社が鎮座している。一段高い石垣の上に本殿があるが、その建物は一回り大きな上屋で保護されている。本殿の前に拝殿があるのは普通であるが、この神社の特色は、さらにその前に「農村舞台」が設置されていることである。
舞台は、間口8間、奥行き5間という大きなもので、この地域にある神社の舞台としては最大のものという。また、回転床、すなわち「廻り舞台」が備えられていることも特徴である。江戸時代後期の文化5年(1808)に建立され、昭和30年代までは歌舞伎や芝居の興業が続けられてきた。

しかし、その後は娯楽の多様化が進み、舞台の使用頻度が少なくなり損傷も激しくなってしまった。それではいけないと、平成12年になって地域の人たちは「石野歌舞伎保存会」を設立して再興を期すこととした。翌13年には廻り舞台も含めた大改修が行われ、14年からは毎年10月に定期公演が開催されている。現在、豊田市の有形民俗文化財に指定されている。
境内の片隅に、幹が曲がりくねった老大木がある。看板がついていて、「アカメヤナギ」と記されていた。この木は木曽川の河川敷や、鶴舞公園の池畔など水気の多い土地に自生する性質をもっている。ここも、田んぼの近くの傾斜地であった。
舞台は、間口8間、奥行き5間という大きなもので、この地域にある神社の舞台としては最大のものという。また、回転床、すなわち「廻り舞台」が備えられていることも特徴である。江戸時代後期の文化5年(1808)に建立され、昭和30年代までは歌舞伎や芝居の興業が続けられてきた。

しかし、その後は娯楽の多様化が進み、舞台の使用頻度が少なくなり損傷も激しくなってしまった。それではいけないと、平成12年になって地域の人たちは「石野歌舞伎保存会」を設立して再興を期すこととした。翌13年には廻り舞台も含めた大改修が行われ、14年からは毎年10月に定期公演が開催されている。現在、豊田市の有形民俗文化財に指定されている。
境内の片隅に、幹が曲がりくねった老大木がある。看板がついていて、「アカメヤナギ」と記されていた。この木は木曽川の河川敷や、鶴舞公園の池畔など水気の多い土地に自生する性質をもっている。ここも、田んぼの近くの傾斜地であった。
名鉄三河線の廃線敷きと西中金駅
名鉄三河線は、旧三河鉄道(株)により、大正3年(1914)に南部の刈谷から碧南市大浜まで開通したのが皮切りである。その後、北部へ延伸され、豊田市猿投まで完成したのは大正13年のことであった。さらに、足助までの延長計画が樹立され、西中金までは昭和2年に開通した。
時は流れ、昭和40年代になりモータリゼーション(死語?)の時代になると、鉄道利用者の減少が始まった。猿投から西中金までは昭和60年からレールバスに変り、平成16年には営業廃止になってしまった。現在は代替の路線バスが走っている。

廃線敷きは、今もレールが敷かれたまま残っている。架線は外されているが、鉄骨の電柱は立ったままである。枕木はないが砕石はそのままで、散歩道として使われている。民家の軒先をかすめながら走っていた三河線の、在りし日の姿を彷彿とさせる景色である。
終点駅の「西中金駅」の駅舎は、昭和5年建設の切妻屋根木造建築である。平成26年の歩道拡幅工事に伴い2mほど曳家されたが、その際に腐食が激しい材木の取り替えなどの修復が施された。花崗岩の切り石が積まれたプラットホームや線路敷きとともに、国の登録文化財に指定されて保存されている

時は流れ、昭和40年代になりモータリゼーション(死語?)の時代になると、鉄道利用者の減少が始まった。猿投から西中金までは昭和60年からレールバスに変り、平成16年には営業廃止になってしまった。現在は代替の路線バスが走っている。

廃線敷きは、今もレールが敷かれたまま残っている。架線は外されているが、鉄骨の電柱は立ったままである。枕木はないが砕石はそのままで、散歩道として使われている。民家の軒先をかすめながら走っていた三河線の、在りし日の姿を彷彿とさせる景色である。
終点駅の「西中金駅」の駅舎は、昭和5年建設の切妻屋根木造建築である。平成26年の歩道拡幅工事に伴い2mほど曳家されたが、その際に腐食が激しい材木の取り替えなどの修復が施された。花崗岩の切り石が積まれたプラットホームや線路敷きとともに、国の登録文化財に指定されて保存されている

半田市亀崎の「鬼門地蔵」その2
亀崎の海岸沿いには、波打ち際から直接石垣を築き、その上に建てた家が数多く見られた。残念ながら、昭和34年の伊勢湾台風により、それらの多くの家が波にさらわれてしまった。ただ幸いだったのは、消防団の強い警告の結果、ほとんどの人々が高台に逃れて死者を一人も出さなかったことである。

私の友人もその一人であるが、家財道具一切何も持ち出すいとまがなく、唯一買ったばかりのテレビだけを抱えて非難したという。このような危機意識が醸成されたのは、前年に床下までの浸水をもたらした「13号台風」の経験だったかもしれない。

厳しい荒海に小船で乗り出す漁師の危険や、台風などの自然災害と向き合う中で、祈りの心が生まれたものと思われる。毎年5月3日・4日に開催される「潮干祭り」には、多大な費用と労力が必要とされる。亀崎は、祭りにしろ地蔵にしろ、強い祈りの気持ちをもつ土地柄なのであろう。
板壁に「舟板」を使った家は、大通りと「せこ」の角の壁に地蔵を嵌めこんでいた。東北角は、多くの家にとって裏側である。勝手口やガスのメーターなど雑然としたところに祠が造られている。軽自動車も通行不可能な「せこ」から、遠くに海が見える。新旧2体の地蔵は、祖父の代に「一人では寂しかろうと」一体増やしたのだという。友人の話しでは、今後も調査を続けていくという。

私の友人もその一人であるが、家財道具一切何も持ち出すいとまがなく、唯一買ったばかりのテレビだけを抱えて非難したという。このような危機意識が醸成されたのは、前年に床下までの浸水をもたらした「13号台風」の経験だったかもしれない。

厳しい荒海に小船で乗り出す漁師の危険や、台風などの自然災害と向き合う中で、祈りの心が生まれたものと思われる。毎年5月3日・4日に開催される「潮干祭り」には、多大な費用と労力が必要とされる。亀崎は、祭りにしろ地蔵にしろ、強い祈りの気持ちをもつ土地柄なのであろう。
板壁に「舟板」を使った家は、大通りと「せこ」の角の壁に地蔵を嵌めこんでいた。東北角は、多くの家にとって裏側である。勝手口やガスのメーターなど雑然としたところに祠が造られている。軽自動車も通行不可能な「せこ」から、遠くに海が見える。新旧2体の地蔵は、祖父の代に「一人では寂しかろうと」一体増やしたのだという。友人の話しでは、今後も調査を続けていくという。
半田市亀崎の「鬼門地蔵」その1
半田・亀崎は、♪♪酒蔵・酢の蔵・木綿蔵・・・♪ と唄われる醸造の町である。江戸への廻船は余所より距離が短いことが有利に働き、海運業で大きな富を得たという。その名残りが豪華絢爛な「潮干祭りの山車」として今も伝えられている。因みに「山車」は「やまぐるま」と読む。
衣浦湾から獲れる海の幸も豊富で、海岸沿いには漁師の家が並んでいた。また、海に突き出た岬の「神前神社」が示すように、高台が直接海に面する地形である。海岸通りから西へ向かうと急な坂道となり、瀬戸内の「尾道」と同じような景観を呈する。狭い「せこ(露地)」に思わぬ文化があった。

私はこの町に中学2年生まで10年ほど暮らしたが、うかつにもこのことは知らなかった。町の至る所に「鬼門地蔵」と呼ばれる祠があることを。先日の中日新聞・県内版で初めて知り、早速、見学することとした。具合のよいことに、亀崎の細部を熟知する同級生に電話すると、案内してくれるという。
「鬼門」とは、陰陽道で鬼が出入りする忌み嫌う方角で、東北の方向である。その角に神仏を祀ることにより災難を逃れることができるという。古い家々の東北角に「お地蔵さま」が祀られている。地蔵は各地で見られるが、個人々々が祀るのは全国でも稀有なことという。これまでの調査では、70か所ほど確認されている。この日は2時間ほど歩いて10か所をお参りすることができた。


衣浦湾から獲れる海の幸も豊富で、海岸沿いには漁師の家が並んでいた。また、海に突き出た岬の「神前神社」が示すように、高台が直接海に面する地形である。海岸通りから西へ向かうと急な坂道となり、瀬戸内の「尾道」と同じような景観を呈する。狭い「せこ(露地)」に思わぬ文化があった。

私はこの町に中学2年生まで10年ほど暮らしたが、うかつにもこのことは知らなかった。町の至る所に「鬼門地蔵」と呼ばれる祠があることを。先日の中日新聞・県内版で初めて知り、早速、見学することとした。具合のよいことに、亀崎の細部を熟知する同級生に電話すると、案内してくれるという。
「鬼門」とは、陰陽道で鬼が出入りする忌み嫌う方角で、東北の方向である。その角に神仏を祀ることにより災難を逃れることができるという。古い家々の東北角に「お地蔵さま」が祀られている。地蔵は各地で見られるが、個人々々が祀るのは全国でも稀有なことという。これまでの調査では、70か所ほど確認されている。この日は2時間ほど歩いて10か所をお参りすることができた。


高浜市「森前公園(瓦庭)」と「渡船場跡」
衣浦大橋を渡りきったすぐの所に、高浜市の「森前公園」がある。この公園は、高浜市の地場産業「瓦」をモチーフにした公園で「瓦庭(がてい)」と称されている。園内の舗装・噴水・モニュメントなど全てに瓦がふんだんに使われている。色は黒一色だがガウディ―のデザインに似たところがある。
公園の隣に「高浜市やきものの里かわら美術館」という長い名の美術館がある。高浜は、日本一の生産を誇る「三州瓦」の中心地である。その歴史は古く、享保年間(300年前)に始まり、大火の後の江戸での需要が増えたことで大発展した。亀崎の湊などから船で出荷したのであろう。

公園の一角に「森前渡船場跡」の石碑が建っている。かつてはこのあたりまでが海で、亀崎まで往復する渡し船の湊になっていた。その起源は明らかではないが、江戸時代、刈谷藩は重要視して「浦役」を庄屋に命じ、船の出入りを取り締まったという。
昭和31年の衣浦大橋開通に伴い、渡し船の役割を終え湊は廃止になった。亀崎側でも同じで、神前(かみさき)神社の近くに常夜灯が残っているだけである。「亀崎渡船場跡」については、2013年4月16日の「衣浦大橋」の項でご紹介していますのでご覧下さい。
公園の隣に「高浜市やきものの里かわら美術館」という長い名の美術館がある。高浜は、日本一の生産を誇る「三州瓦」の中心地である。その歴史は古く、享保年間(300年前)に始まり、大火の後の江戸での需要が増えたことで大発展した。亀崎の湊などから船で出荷したのであろう。

公園の一角に「森前渡船場跡」の石碑が建っている。かつてはこのあたりまでが海で、亀崎まで往復する渡し船の湊になっていた。その起源は明らかではないが、江戸時代、刈谷藩は重要視して「浦役」を庄屋に命じ、船の出入りを取り締まったという。
昭和31年の衣浦大橋開通に伴い、渡し船の役割を終え湊は廃止になった。亀崎側でも同じで、神前(かみさき)神社の近くに常夜灯が残っているだけである。「亀崎渡船場跡」については、2013年4月16日の「衣浦大橋」の項でご紹介していますのでご覧下さい。
衣浦大橋 その2
国道247号は、名古屋市熱田を出て知多半島を一周したのち三河に渡り、西尾・蒲郡を経て豊橋に至る。知多半島から三河へ渡るのは、半田亀崎と高浜を結ぶ「衣浦大橋」である。上下線(東行きと西行き)は別々の橋でいずれも2車線である。(2013・4・16の記事参照)
西行きの下りは、鋼床箱桁の平凡な景観(旧橋の景観を阻害しない配慮かもしれない)で、1978年に交通渋滞緩和のために建設された。橋長413m、幅員11m。現在、高浜方面からの侵入をスムーズにするため、左折レーンのための専用橋を整備中である。

亀崎から高浜へ渡る上り線は、昭和31年(1956)に開通した古い橋である。日本で初めての海に架かる橋であり、「夢の架け橋」と呼ばれていた。全長412m(当初は650m)、幅員8.9mである。型式はトラス橋であるが、4か所の高い波があるところに特色がある。
先日の新聞で、老朽化したので架け替えのための予備設計を行う旨の記事を読んだ。すでに65年近い年月を経ているので仕方ないこととは思う。ただ、当時亀崎小学校4年生で、「開通祝賀の旗振り行事」に参加した私としては、例えば歩行者・自転車専用道などとして残せないものかと願うものである。

西行きの下りは、鋼床箱桁の平凡な景観(旧橋の景観を阻害しない配慮かもしれない)で、1978年に交通渋滞緩和のために建設された。橋長413m、幅員11m。現在、高浜方面からの侵入をスムーズにするため、左折レーンのための専用橋を整備中である。

亀崎から高浜へ渡る上り線は、昭和31年(1956)に開通した古い橋である。日本で初めての海に架かる橋であり、「夢の架け橋」と呼ばれていた。全長412m(当初は650m)、幅員8.9mである。型式はトラス橋であるが、4か所の高い波があるところに特色がある。
先日の新聞で、老朽化したので架け替えのための予備設計を行う旨の記事を読んだ。すでに65年近い年月を経ているので仕方ないこととは思う。ただ、当時亀崎小学校4年生で、「開通祝賀の旗振り行事」に参加した私としては、例えば歩行者・自転車専用道などとして残せないものかと願うものである。

安城市の丈山苑
紅葉の季節である。愛知県なら足助の香嵐渓、犬山の寂光院や有楽苑、名古屋市内なら東山植物園の合掌造り周辺や、庭としては新しいけれど徳川園の日本庭園が思い浮かぶ。もうひとつ、安城のデンパーク近くの「丈山苑」を思い出した。
さっそく、ブログの取材を兼ねて安城へ行くこととした。人の混雑する博物館や美術館は、コロナが厳しい今、自分の年齢を考えると避けた方が良いと思う。その点、公園や庭園など広いアウトドアなら、感染の確率も低く、鬱屈した心を晴らすのにも適していると考える。

京都・東山の「詩仙堂丈山寺」を、友人に案内してもらったことがある。石川丈山(1583~1672)が晩年を過ごした寺である。丈山は徳川家に仕えた武将であったが、大坂夏の陣の後、武士を捨てて学問と風雅を楽しむ身となった。京都一乗寺に建て、終の住処としたのが「詩仙堂」である。
生まれ故郷である安城市では、丈山を記念するため、詩仙堂にそっくりそのままの庭園を整備した。「丈山苑」である。丸窓のある三階建ての「詩泉閣」を中心に庭園が広がっている。鈎状に曲がった濡れ縁からは、サツキの刈込みを植えた枯山水が眺められる。池や四阿のある池水回遊式庭園では、紅葉したカエデや実を付けた柿の木が美しかった。

さっそく、ブログの取材を兼ねて安城へ行くこととした。人の混雑する博物館や美術館は、コロナが厳しい今、自分の年齢を考えると避けた方が良いと思う。その点、公園や庭園など広いアウトドアなら、感染の確率も低く、鬱屈した心を晴らすのにも適していると考える。

京都・東山の「詩仙堂丈山寺」を、友人に案内してもらったことがある。石川丈山(1583~1672)が晩年を過ごした寺である。丈山は徳川家に仕えた武将であったが、大坂夏の陣の後、武士を捨てて学問と風雅を楽しむ身となった。京都一乗寺に建て、終の住処としたのが「詩仙堂」である。
生まれ故郷である安城市では、丈山を記念するため、詩仙堂にそっくりそのままの庭園を整備した。「丈山苑」である。丸窓のある三階建ての「詩泉閣」を中心に庭園が広がっている。鈎状に曲がった濡れ縁からは、サツキの刈込みを植えた枯山水が眺められる。池や四阿のある池水回遊式庭園では、紅葉したカエデや実を付けた柿の木が美しかった。
