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旧名古屋高等裁判所

 明治になって、日本の司法制度が確立する中で、各地に裁判所が建設された。名古屋では明治11年、丸の内地区に木造の裁判所ができた。大正11年(1922)になって、煉瓦造りの建物が、名古屋控訴院(正式には「名古屋控訴院・地方裁判所・区裁判所庁舎」)として完成する。
 建築様式はネオ・バロック、赤い煉瓦に縁取りは白い御影石、屋根は天然スレートの黒である。中央には緑青色に変色した銅板葺のドームが聳えている。同じころに全国で8か所(宮城・東京・大阪・高松・広島・長崎)の控訴院が出来たが、古い建物が今も残るのは札幌と名古屋だけである。

高裁マップ

 この建物にも危機があった。1970年台になると、高等裁判所(控訴院)の建替え計画が持ち上がったのである。手狭になった裁判所建物を、現地で改築するには旧庁舎は取り壊す必要があるとして、昭和54年、国は取り壊し撤去を決定する。それに対し、有識者や市民に惜しむ声が高まった。
 名古屋市は新庁舎を現地建替えでなく、官庁街にある公園に移転することを提案し、旧庁舎は保存する方針を希望した。用地が交換され、建物は残されたまま名城公園の一部に編入された。旧庁舎は改修工事が施されたのち国の重要文化財に指定され、現在は市政資料館として再活用されている。
(蛇足ですが・・・都市公園を廃止するには、代替の公園を用意する必要があります。この件は、うまく用地交換ができたので交渉が成立しました。)

季節通信112ネジバナ

山崎川の石川橋

 鶴舞公園の北側、名古屋大学病院との間の道を歩いていて、公園入口の車止めに変った石柱2本を見つけた。片側には「いしかわ・・・」とあり、もう一方には「昭和十年・・・」とある。深く埋められたためその下の文字は読めないが、おそらく「いしかわはし」と「昭和十年〇〇月」であろう。
 古い欄干の親柱が新しい橋の架け替えによって撤去され、その再利用として公園の車止めになったものと思われる。石川橋は、昭和区の瑞穂区との境界近くにある。八事への街道(八事古道?)が山崎川を跨ぐ地点に架かる橋である。往時は、八事興正寺に参詣する人で賑わったという。

石川橋G

 現在の橋は、親柱に照明塔があり、橋の中央に半円形のデッキをもつお洒落なデザインである。桜で有名な山崎川に相応しく、ここからも桜並木を眺めることができる。平日の午後であったが、自転車の家族連れや犬を連れて散歩する人を見かけた。

石川橋マップ

 山崎川は平和公園の猫ヶ洞池を源流に、御器所台地と八事丘陵の間の谷を流れる渓流で名古屋港に注ぐ。石川橋を渡ると、丘陵へ昇る急な坂道となる。このあたりを「壇渓」と呼ぶ。「壇渓」は、三国志の英雄・劉備玄徳が危機に陥った時、名馬の跳躍によって脱出したという川の名と同じである。

季節通信110トクサ


知多市岡田の簡易郵便局と防空壕跡

 岡田は曲がりくねった小道と坂の多い町である。木綿蔵の隣に、板張りの洋館がある。「知多岡田簡易郵便局」である。木造二階建て・寄棟屋根・桟瓦葺きで、明治35年(1902)に完成した。現在も使用されているが、瓦斯灯風の街路灯や赤い陶製のポストなど、往時の雰囲気を醸し出している。
 この地に郵便局が初めて出来たのは明治32年のこと。その後、名称変更や移転廃止などを繰り返しながら、平成5年に「知多簡易郵便局」として復活した。簡易郵便局とは、郵政民営化以前に、窓口業務を団体あるいは個人に委託する局をいう。全国に約4000か所あるという。

岡田の郵便局

 坂道の石垣に不思議なものを見つけた。大口径のヒューム管のようだが、排水溝が道路に顔を見せるわけがない。説明の看板があって、戦時中の「防空壕」であることが分かった。昭和18年、本土空襲に備えて、地域住民が自ら掘った壕の入り口である。
 当時は、2か所の口があって、U字型に繋がっていた。度々の名古屋空襲のときには、多くの人々が避難のために中に入ったという。今は入口が閉鎖されているため、中を見ることはできなかった。看板は、「岡田街並保存会」が立てたもので、悲惨な戦争の記憶を風化させないようにとの思いであろう。緑のシダに覆われている。

知多市岡田の「木綿蔵」

 知多市岡田地区は、江戸時代から昭和時代までの風情が色濃く残る町である。坂の多い小道が続き、石垣や古い建物が並んでいる。かつて全国1~2位の生産量を誇った「知多木綿」生産の中心地であった。木綿産業繁栄期には、女工さんたちが3000人も集まっていたという。
 なまこ壁の土蔵と木造寄棟造りの簡易郵便局に挟まれて、堂々とした土蔵造りの建物がある。木造二階建て・切妻屋根に桟瓦葺きの建物は、明治末期から大正初期に建てられた。木綿を収納する倉庫で、荷物を2階へ上げるための滑車や、荷物の梱包をするための広い軒下をもっている。

岡田G

 岡田村は、慶長11年(1606)に3つの村が合併して誕生した。当時から、農作業の合間に女性が木綿を織っていたという。享保年間(1716~35)には、知多木綿は江戸をはじめ全国に販路を広げた。明治になると、動力織機を導入した大量生産の時代に入る。豊田佐吉とも交流があったという。
 戦時中は軍需工場に転用させられたが、戦後は再び輸出産業の花形となった。しかし、昭和40年代になると、周辺国に追い上げられて衰退を余儀なくされている。現在この建物は登録有形文化財に指定され、「岡田街並保存」の中心施設「手織りの里木綿蔵・ちた」として利用されている。館内では、機織りの実演も行なわれていた。

岡田H

季節通信108ワタ


ハンガリー国境の町「ショプロン」

 「ベルリンの壁」が崩壊してから、すでに30年以上になる。東西冷戦の象徴として壁が出来たのは昭和36年(1961)のこと。分裂した東ドイツから西ドイツへの人口流出が続いたので、頭を痛めた東ドイツ(ソ連?)政府が鉄条網を張ったのが最初である。その後、コンクリート壁へと強化された。
 ハンガリーからオーストリアのウィーンへ向かう途中、国境の町ショプロンに立ち寄った。「ヨーロッパの美しい村30選」に選ばれるほど街並みの美しい町だが、もう一つ有名なことがある。1989年、東ドイツ国民が「ピクニック大会」と称して、隣国のオーストリアへ大量越境した事件の起きた町なのである。

ショプロンG

 当時、同じ東側陣営であったハンガリーへは東ドイツからの旅行が許されていた。西ドイツ国民は、国境のショプロンに東の市民を集めて西へ脱出させたのである。亡命に手を焼いた東ドイツ政府は、西への旅行を認めることとなり、ひいてはベルリンの壁崩壊へと繫がっていくこととなった。
 国境近くに円筒形の石張りモニュメントがあり、当時の写真が貼ってある。バリケードを壊して脱出する市民や、警官と言い争う市民などが写っている。ショプロンの町は教会前広場やシンボルの「火の見塔」など美しい町である。広場の外周には、お茶や食事のできるオープンカフェが並んでいた。

宇治の平等院

 宇治は、京都盆地の東側を縁取る山地にある。平安の時代から貴族の別荘が数多く営まれていた。1000年もの昔に書かれた『源氏物語』の「宇治十帖」の舞台となった。まさに風光明媚、山紫水明の言葉通りの美しい地域である。
 宇治川は、琵琶湖から流れ出る唯一の河川である。最初は瀬田川と呼び、中流域を宇治川、下って淀川となって大阪湾に注ぐ。宇治のあたりは、京都と滋賀の境に当たる醍醐山地をくの字に曲がるが、峡谷美に富んでいるので「宇治川ライン」とも呼ばれて舟下りの名所になっている。

宇治の平等院G

 藤原道長の子・関白頼通は、永承7年(1052)に末法の世が到来したとして、別荘を寺院に改めることとした。「宇治の平等院」である。朱塗りの柱や梁に瓦屋根が乗る。屋根の両端に金色の鳳凰が羽ばたいている。「鳳凰堂」の名の由来である。
 建築様式は、平安時代の上層住宅の「寝殿造り」である。中央に「主殿」が置かれ、左右に「対屋(たいのや)」が配された左右対称の建物である。前面(南面)には大きな池をもち、舟遊びが行われた。主殿の格子壁に小さな窓があって、ご本尊を外から拝観することができる。

ハマヒルガオ季節通信107
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ブログを始めるに当って

 私ども「中部復建」は、戦後から一貫して土木施設の計画設計に携わってきました。地域の皆さんに、より身近に土木を感じて頂きたく先人が残してくれた土木遺産等を訪ね歩き≪中部の『土木文化』見てある記≫として、皆さんに紹介していきたいと思い、このブログを発信する事としました。  

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プロフィール

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森 田 高 尚
昭和21年6月 半田市生まれ
平成12年 東山植物園長
平成17年 名古屋市緑地部長
平成19年 中電ブルーボネット園長
平成24年 中部復建技術顧問
技術士:(建設部門・環境部門)
公園管理運営士 
著書:『園長さんのガーデンライフ』
監修:『世界一うつくしい植物園』
 (著者:木谷美咲)
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