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四日市あすなろう鉄道「内部線」「八王子線」
近鉄四日市駅に隣接して「あすなろう四日市駅」がある。この駅は、「四日市あすなろう鉄道」(第2種鉄道事業者)が経営する「内部(うつべ)線」「八王子線」、二つの路線の始発駅である。かつては近鉄が運営していたが、平成27年(2015)からは近鉄と四日市市が共同で運営することとなった。
内部線は、四日市市南部の内部駅まで約6kmの路線である。八王子線は、途中、日永駅から枝分かれして西日野駅までを走る。合わせて9つの駅がある。いずれも、線路幅が762mm(30インチ)の特殊な狭軌の軽便鉄道である。

このような狭軌道は、全国でも「三岐鉄道・北勢線」と「黒部峡谷・トロッコ電車」だけと珍しい。線路幅も狭いが車両も小ぶりで、横一列の座席両側に人が座ると、真ん中の通路は歩きづらいほどである。しかし、そのことがむしろ、客同士の親密な雰囲気をつくり出すのかも知れない。
四日市市に合併する前の旧内部村は、内部川流域の農村で野菜などを栽培していた。今もトマトなどの生産をしているが、平成に入って山間部を中心に住宅化が進んでいる。あすなろう鉄道は、ニュータウンに住む人たちの大切な足になっている。

内部線は、四日市市南部の内部駅まで約6kmの路線である。八王子線は、途中、日永駅から枝分かれして西日野駅までを走る。合わせて9つの駅がある。いずれも、線路幅が762mm(30インチ)の特殊な狭軌の軽便鉄道である。

このような狭軌道は、全国でも「三岐鉄道・北勢線」と「黒部峡谷・トロッコ電車」だけと珍しい。線路幅も狭いが車両も小ぶりで、横一列の座席両側に人が座ると、真ん中の通路は歩きづらいほどである。しかし、そのことがむしろ、客同士の親密な雰囲気をつくり出すのかも知れない。
四日市市に合併する前の旧内部村は、内部川流域の農村で野菜などを栽培していた。今もトマトなどの生産をしているが、平成に入って山間部を中心に住宅化が進んでいる。あすなろう鉄道は、ニュータウンに住む人たちの大切な足になっている。

旧名古屋高等裁判所
明治になって、日本の司法制度が確立する中で、各地に裁判所が建設された。名古屋では明治11年、丸の内地区に木造の裁判所ができた。大正11年(1922)になって、煉瓦造りの建物が、名古屋控訴院(正式には「名古屋控訴院・地方裁判所・区裁判所庁舎」)として完成する。
建築様式はネオ・バロック、赤い煉瓦に縁取りは白い御影石、屋根は天然スレートの黒である。中央には緑青色に変色した銅板葺のドームが聳えている。同じころに全国で8か所(宮城・東京・大阪・高松・広島・長崎)の控訴院が出来たが、古い建物が今も残るのは札幌と名古屋だけである。

この建物にも危機があった。1970年台になると、高等裁判所(控訴院)の建替え計画が持ち上がったのである。手狭になった裁判所建物を、現地で改築するには旧庁舎は取り壊す必要があるとして、1979年、国は取り壊し撤去を決定する。それに対し、有識者や市民に惜しむ声が高まった。
名古屋市は新庁舎を現地建替えでなく、官庁街にある公園に移転することを提案し、旧庁舎は保存する方針を希望した。用地が交換され、建物は残されたまま名城公園の一部に編入された。旧庁舎は改修工事が施されたのち国の重要文化財に指定され、現在は市政資料館として再活用されている。
(蛇足ですが・・・都市公園を廃止するには、代替の公園を用意する必要があります。この件は、うまく用地交換ができたので交渉が成立しました。)

建築様式はネオ・バロック、赤い煉瓦に縁取りは白い御影石、屋根は天然スレートの黒である。中央には緑青色に変色した銅板葺のドームが聳えている。同じころに全国で8か所(宮城・東京・大阪・高松・広島・長崎)の控訴院が出来たが、古い建物が今も残るのは札幌と名古屋だけである。

この建物にも危機があった。1970年台になると、高等裁判所(控訴院)の建替え計画が持ち上がったのである。手狭になった裁判所建物を、現地で改築するには旧庁舎は取り壊す必要があるとして、1979年、国は取り壊し撤去を決定する。それに対し、有識者や市民に惜しむ声が高まった。
名古屋市は新庁舎を現地建替えでなく、官庁街にある公園に移転することを提案し、旧庁舎は保存する方針を希望した。用地が交換され、建物は残されたまま名城公園の一部に編入された。旧庁舎は改修工事が施されたのち国の重要文化財に指定され、現在は市政資料館として再活用されている。
(蛇足ですが・・・都市公園を廃止するには、代替の公園を用意する必要があります。この件は、うまく用地交換ができたので交渉が成立しました。)

山崎川の石川橋
鶴舞公園の北側、名古屋大学病院との間の道を歩いていて、公園入口の車止めに変った石柱2本を見つけた。片側には「いしかわ・・・」とあり、もう一方には「昭和十年・・・」とある。深く埋められたためその下の文字は読めないが、おそらく「いしかわはし」と「昭和十年〇〇月」であろう。
古い欄干の親柱が新しい橋の架け替えによって撤去され、その再利用として公園の車止めになったものと思われる。石川橋は、昭和区の瑞穂区との境界近くにある。八事への街道(八事古道?)が山崎川を跨ぐ地点に架かる橋である。往時は、八事興正寺に参詣する人で賑わったという。

現在の橋は、親柱に照明塔があり、橋の中央に半円形のデッキをもつお洒落なデザインである。桜で有名な山崎川に相応しく、ここからも桜並木を眺めることができる。平日の午後であったが、自転車の家族連れや犬を連れて散歩する人を見かけた。

山崎川は平和公園の猫ヶ洞池を源流に、御器所台地と八事丘陵の間の谷を流れる渓流で名古屋港に注ぐ。石川橋を渡ると、丘陵へ昇る急な坂道となる。このあたりを「壇渓」と呼ぶ。「壇渓」は、三国志の英雄・劉備玄徳が危機に陥った時、名馬の跳躍によって脱出したという川の名と同じである。

古い欄干の親柱が新しい橋の架け替えによって撤去され、その再利用として公園の車止めになったものと思われる。石川橋は、昭和区の瑞穂区との境界近くにある。八事への街道(八事古道?)が山崎川を跨ぐ地点に架かる橋である。往時は、八事興正寺に参詣する人で賑わったという。

現在の橋は、親柱に照明塔があり、橋の中央に半円形のデッキをもつお洒落なデザインである。桜で有名な山崎川に相応しく、ここからも桜並木を眺めることができる。平日の午後であったが、自転車の家族連れや犬を連れて散歩する人を見かけた。

山崎川は平和公園の猫ヶ洞池を源流に、御器所台地と八事丘陵の間の谷を流れる渓流で名古屋港に注ぐ。石川橋を渡ると、丘陵へ昇る急な坂道となる。このあたりを「壇渓」と呼ぶ。「壇渓」は、三国志の英雄・劉備玄徳が危機に陥った時、名馬の跳躍によって脱出したという川の名と同じである。

知多市岡田の簡易郵便局と防空壕跡
岡田は曲がりくねった小道と坂の多い町である。木綿蔵の隣に、板張りの洋館がある。「知多岡田簡易郵便局」である。木造二階建て・寄棟屋根・桟瓦葺きで、明治35年(1902)に完成した。現在も使用されているが、瓦斯灯風の街路灯や赤い陶製のポストなど、往時の雰囲気を醸し出している。
この地に郵便局が初めて出来たのは明治32年のこと。その後、名称変更や移転廃止などを繰り返しながら、平成5年に「知多簡易郵便局」として復活した。簡易郵便局とは、郵政民営化以前に、窓口業務を団体あるいは個人に委託する局をいう。全国に約4000か所あるという。

坂道の石垣に不思議なものを見つけた。大口径のヒューム管のようだが、排水溝が道路に顔を見せるわけがない。説明の看板があって、戦時中の「防空壕」であることが分かった。昭和18年、本土空襲に備えて、地域住民が自ら掘った壕の入り口である。
当時は、2か所の口があって、U字型に繋がっていた。度々の名古屋空襲のときには、多くの人々が避難のために中に入ったという。今は入口が閉鎖されているため、中を見ることはできなかった。看板は、「岡田街並保存会」が立てたもので、悲惨な戦争の記憶を風化させないようにとの思いであろう。緑のシダに覆われている。
この地に郵便局が初めて出来たのは明治32年のこと。その後、名称変更や移転廃止などを繰り返しながら、平成5年に「知多簡易郵便局」として復活した。簡易郵便局とは、郵政民営化以前に、窓口業務を団体あるいは個人に委託する局をいう。全国に約4000か所あるという。

坂道の石垣に不思議なものを見つけた。大口径のヒューム管のようだが、排水溝が道路に顔を見せるわけがない。説明の看板があって、戦時中の「防空壕」であることが分かった。昭和18年、本土空襲に備えて、地域住民が自ら掘った壕の入り口である。
当時は、2か所の口があって、U字型に繋がっていた。度々の名古屋空襲のときには、多くの人々が避難のために中に入ったという。今は入口が閉鎖されているため、中を見ることはできなかった。看板は、「岡田街並保存会」が立てたもので、悲惨な戦争の記憶を風化させないようにとの思いであろう。緑のシダに覆われている。
知多市岡田の「木綿蔵」
知多市岡田地区は、江戸時代から昭和時代までの風情が色濃く残る町である。坂の多い小道が続き、石垣や古い建物が並んでいる。かつて全国1~2位の生産量を誇った「知多木綿」生産の中心地であった。木綿産業繁栄期には、女工さんたちが3000人も集まっていたという。
なまこ壁の土蔵と木造寄棟造りの簡易郵便局に挟まれて、堂々とした土蔵造りの建物がある。木造二階建て・切妻屋根に桟瓦葺きの建物は、明治末期から大正初期に建てられた。木綿を収納する倉庫で、荷物を2階へ上げるための滑車や、荷物の梱包をするための広い軒下をもっている。

岡田村は、慶長11年(1606)に3つの村が合併して誕生した。当時から、農作業の合間に女性が木綿を織っていたという。享保年間(1716~35)には、知多木綿は江戸をはじめ全国に販路を広げた。明治になると、動力織機を導入した大量生産の時代に入る。豊田佐吉とも交流があったという。
戦時中は軍需工場に転用させられたが、戦後は再び輸出産業の花形となった。しかし、昭和40年代になると、周辺国に追い上げられて衰退を余儀なくされている。現在この建物は登録有形文化財に指定され、「岡田街並保存」の中心施設「手織りの里木綿蔵・ちた」として利用されている。館内では、機織りの実演も行なわれていた。


なまこ壁の土蔵と木造寄棟造りの簡易郵便局に挟まれて、堂々とした土蔵造りの建物がある。木造二階建て・切妻屋根に桟瓦葺きの建物は、明治末期から大正初期に建てられた。木綿を収納する倉庫で、荷物を2階へ上げるための滑車や、荷物の梱包をするための広い軒下をもっている。

岡田村は、慶長11年(1606)に3つの村が合併して誕生した。当時から、農作業の合間に女性が木綿を織っていたという。享保年間(1716~35)には、知多木綿は江戸をはじめ全国に販路を広げた。明治になると、動力織機を導入した大量生産の時代に入る。豊田佐吉とも交流があったという。
戦時中は軍需工場に転用させられたが、戦後は再び輸出産業の花形となった。しかし、昭和40年代になると、周辺国に追い上げられて衰退を余儀なくされている。現在この建物は登録有形文化財に指定され、「岡田街並保存」の中心施設「手織りの里木綿蔵・ちた」として利用されている。館内では、機織りの実演も行なわれていた。


ハンガリー国境の町「ショプロン」
「ベルリンの壁」が崩壊してから、すでに30年以上になる。東西冷戦の象徴として壁が出来たのは昭和36年(1961)のこと。分裂した東ドイツから西ドイツへの人口流出が続いたので、頭を痛めた東ドイツ(ソ連?)政府が鉄条網を張ったのが最初である。その後、コンクリート壁へと強化された。
ハンガリーからオーストリアのウィーンへ向かう途中、国境の町ショプロンに立ち寄った。「ヨーロッパの美しい村30選」に選ばれるほど街並みの美しい町だが、もう一つ有名なことがある。1989年、東ドイツ国民が「ピクニック大会」と称して、隣国のオーストリアへ大量越境した事件の起きた町なのである。

当時、同じ東側陣営であったハンガリーへは東ドイツからの旅行が許されていた。西ドイツ国民は、国境のショプロンに東の市民を集めて西へ脱出させたのである。亡命に手を焼いた東ドイツ政府は、西への旅行を認めることとなり、ひいてはベルリンの壁崩壊へと繫がっていくこととなった。
国境近くに円筒形の石張りモニュメントがあり、当時の写真が貼ってある。バリケードを壊して脱出する市民や、警官と言い争う市民などが写っている。ショプロンの町は教会前広場やシンボルの「火の見塔」など美しい町である。広場の外周には、お茶や食事のできるオープンカフェが並んでいた。
ハンガリーからオーストリアのウィーンへ向かう途中、国境の町ショプロンに立ち寄った。「ヨーロッパの美しい村30選」に選ばれるほど街並みの美しい町だが、もう一つ有名なことがある。1989年、東ドイツ国民が「ピクニック大会」と称して、隣国のオーストリアへ大量越境した事件の起きた町なのである。

当時、同じ東側陣営であったハンガリーへは東ドイツからの旅行が許されていた。西ドイツ国民は、国境のショプロンに東の市民を集めて西へ脱出させたのである。亡命に手を焼いた東ドイツ政府は、西への旅行を認めることとなり、ひいてはベルリンの壁崩壊へと繫がっていくこととなった。
国境近くに円筒形の石張りモニュメントがあり、当時の写真が貼ってある。バリケードを壊して脱出する市民や、警官と言い争う市民などが写っている。ショプロンの町は教会前広場やシンボルの「火の見塔」など美しい町である。広場の外周には、お茶や食事のできるオープンカフェが並んでいた。
宇治の平等院
宇治は、京都盆地の東側を縁取る山地にある。平安の時代から貴族の別荘が数多く営まれていた。1000年もの昔に書かれた『源氏物語』の「宇治十帖」の舞台となった。まさに風光明媚、山紫水明の言葉通りの美しい地域である。
宇治川は、琵琶湖から流れ出る唯一の河川である。最初は瀬田川と呼び、中流域を宇治川、下って淀川となって大阪湾に注ぐ。宇治のあたりは、京都と滋賀の境に当たる醍醐山地をくの字に曲がるが、峡谷美に富んでいるので「宇治川ライン」とも呼ばれて舟下りの名所になっている。

藤原道長の子・関白頼通は、永承7年(1052)に末法の世が到来したとして、別荘を寺院に改めることとした。「宇治の平等院」である。朱塗りの柱や梁に瓦屋根が乗る。屋根の両端に金色の鳳凰が羽ばたいている。「鳳凰堂」の名の由来である。
建築様式は、平安時代の上層住宅の「寝殿造り」である。中央に「主殿」が置かれ、左右に「対屋(たいのや)」が配された左右対称の建物である。前面(南面)には大きな池をもち、舟遊びが行われた。主殿の格子壁に小さな窓があって、ご本尊を外から拝観することができる。

宇治川は、琵琶湖から流れ出る唯一の河川である。最初は瀬田川と呼び、中流域を宇治川、下って淀川となって大阪湾に注ぐ。宇治のあたりは、京都と滋賀の境に当たる醍醐山地をくの字に曲がるが、峡谷美に富んでいるので「宇治川ライン」とも呼ばれて舟下りの名所になっている。

藤原道長の子・関白頼通は、永承7年(1052)に末法の世が到来したとして、別荘を寺院に改めることとした。「宇治の平等院」である。朱塗りの柱や梁に瓦屋根が乗る。屋根の両端に金色の鳳凰が羽ばたいている。「鳳凰堂」の名の由来である。
建築様式は、平安時代の上層住宅の「寝殿造り」である。中央に「主殿」が置かれ、左右に「対屋(たいのや)」が配された左右対称の建物である。前面(南面)には大きな池をもち、舟遊びが行われた。主殿の格子壁に小さな窓があって、ご本尊を外から拝観することができる。
