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東京駅
日本近代建築の父とも称される辰野金吾は、工部大学校(現東京大学工学部)の一期生としてイギリスの建築家ジョサイア・コンドルから建築を学んだ。首席で卒業した彼は、官費留学生としてヨーロッパで幅広く建築を勉強する。帰国後、大学で教育を行いながら多くの建物を設計した。
「日本銀行本店」「中央停車場(東京駅)」「国会議事堂」3つを手掛けることが目標であったが、そのうち2つ、日本銀行と東京駅の設計は依頼されることができた。東京駅の設計を始めたのは、明治36年(1903)のことであり、足掛け8年を要して完了したのは明治43年になってからである。

レンガと鉄筋による3階建てで、長さ330m、総面積約9500㎡の豪壮な洋式建築である。南北にそれぞれドーム屋根があり、乗降口となっている。中央の玄関は皇室専用とされ、一般の人が出入りすることはできない。完成・開業は大正3年(1914)である。
当初の建物は昭和20年(1945)の空襲により大きな被害を受け、その後70年近くは木造八角形の屋根が乗せられていた。昭和の末に、元通りに復元したいとの市民運動が巻き起り、完成したのは平成12年のことである。費用約500億円は、「空中権の売渡し」により捻出したという。
中央付近に「中央ステーションホテル」の玄関があった。ラグジュアリー(ぜいたく)なホテルなので我々には縁遠いが、利便は最高であり利用率も高いことと思われる。客室数は150室で、駅舎面積の約半分を占めているという。
「日本銀行本店」「中央停車場(東京駅)」「国会議事堂」3つを手掛けることが目標であったが、そのうち2つ、日本銀行と東京駅の設計は依頼されることができた。東京駅の設計を始めたのは、明治36年(1903)のことであり、足掛け8年を要して完了したのは明治43年になってからである。

レンガと鉄筋による3階建てで、長さ330m、総面積約9500㎡の豪壮な洋式建築である。南北にそれぞれドーム屋根があり、乗降口となっている。中央の玄関は皇室専用とされ、一般の人が出入りすることはできない。完成・開業は大正3年(1914)である。
当初の建物は昭和20年(1945)の空襲により大きな被害を受け、その後70年近くは木造八角形の屋根が乗せられていた。昭和の末に、元通りに復元したいとの市民運動が巻き起り、完成したのは平成12年のことである。費用約500億円は、「空中権の売渡し」により捻出したという。
中央付近に「中央ステーションホテル」の玄関があった。ラグジュアリー(ぜいたく)なホテルなので我々には縁遠いが、利便は最高であり利用率も高いことと思われる。客室数は150室で、駅舎面積の約半分を占めているという。
飛鳥の「甘樫の丘」
「無用の豪族、蘇我氏を倒せ」・・・語呂合わせで「大化の改新」は645年と覚えた。中大兄皇子が中臣鎌足と諮って蘇我氏を滅ぼしたクーデターである。ただ最近では、「大化の改新」はその後の政治改革を指すのであって、事件そのものは「乙巳(いっし)の変」と呼ぶ。
蘇我氏は、専横を極めた「逆臣」と言われてきた。しかし、本当に蘇我蝦夷・入鹿父子は悪逆非道の逆臣だったのだろうか。いやそうではなく、当時、もっとも国際事情に精通した英明な政治家だったという意見もある。聖徳太子と一体になって遣隋使を派遣し、百済から仏教を導入するなど先見の明がある人物だったと。

◆甘樫の丘から見た天の香具山◆飛鳥の谷を流れる飛鳥川◆甘樫の丘からの法興寺跡と宮殿跡
◆「蘇我入鹿の首塚」、この小さなお墓は誰が造ったのだろう? 入鹿は今も甘樫の丘を見ている?
◆法興寺跡には、今では小さな「飛鳥寺」が建っている。
もう一つ大きな功績がある。聖徳太子が建立した「法隆寺」と並ぶ広大な「法興寺」の建設である。(二つ合わせると「仏法の興隆」となる。)この時期、大陸では、唐・高句麗・新羅・百済が勢力争いをしていて不穏であり、いつ日本に戦乱が及ぶかもしれないと蘇我氏は心配していた。
飛鳥の平面図を見ていただこう。法興寺は飛鳥の谷の入り口に位置している。これは宮殿を外敵から守ろうとする意図と見える。逆に南からの敵は馬子(島の大臣)邸で食い止める。谷に突き出た「甘樫の丘」には蘇我氏の邸宅があり、これも専横の証拠と言われてきた。
しかし、見方を変えるとこの丘は敵の状況を見張る恰好の管制塔であり山城でもある。蘇我氏は娘を天皇に輿入れさせた外戚であり、皇室とともに繁栄しようと考えていた。「歴史書」(日本書紀など)は勝者が書き残すものだから、注意して読む必要があると思う。
◆ ちょうどこの原稿を書き上げた日に、我家の庭に「タマムシ」が飛んできた。なんという縁であろう!! 今日では貴重な昆虫なので、数枚の写真に収めたのち空へと放してあげた。

蘇我氏は、専横を極めた「逆臣」と言われてきた。しかし、本当に蘇我蝦夷・入鹿父子は悪逆非道の逆臣だったのだろうか。いやそうではなく、当時、もっとも国際事情に精通した英明な政治家だったという意見もある。聖徳太子と一体になって遣隋使を派遣し、百済から仏教を導入するなど先見の明がある人物だったと。

◆甘樫の丘から見た天の香具山◆飛鳥の谷を流れる飛鳥川◆甘樫の丘からの法興寺跡と宮殿跡
◆「蘇我入鹿の首塚」、この小さなお墓は誰が造ったのだろう? 入鹿は今も甘樫の丘を見ている?
◆法興寺跡には、今では小さな「飛鳥寺」が建っている。
もう一つ大きな功績がある。聖徳太子が建立した「法隆寺」と並ぶ広大な「法興寺」の建設である。(二つ合わせると「仏法の興隆」となる。)この時期、大陸では、唐・高句麗・新羅・百済が勢力争いをしていて不穏であり、いつ日本に戦乱が及ぶかもしれないと蘇我氏は心配していた。
飛鳥の平面図を見ていただこう。法興寺は飛鳥の谷の入り口に位置している。これは宮殿を外敵から守ろうとする意図と見える。逆に南からの敵は馬子(島の大臣)邸で食い止める。谷に突き出た「甘樫の丘」には蘇我氏の邸宅があり、これも専横の証拠と言われてきた。
しかし、見方を変えるとこの丘は敵の状況を見張る恰好の管制塔であり山城でもある。蘇我氏は娘を天皇に輿入れさせた外戚であり、皇室とともに繁栄しようと考えていた。「歴史書」(日本書紀など)は勝者が書き残すものだから、注意して読む必要があると思う。
◆ ちょうどこの原稿を書き上げた日に、我家の庭に「タマムシ」が飛んできた。なんという縁であろう!! 今日では貴重な昆虫なので、数枚の写真に収めたのち空へと放してあげた。

平城宮の「東院庭園」
大化の改新(乙巳の変=645年)を成し遂げた天智天皇の後、壬申の乱を経て天武天皇の世となる。天武の後を継いだ持統天皇(天智の娘・天武の皇后)の孫に当たる文武天皇が早逝すると、その母であり持統の妹である元明が天皇を継ぐ。「平城京」は、文武時代に審議され、元明がその思いを成し遂げて710年に遷都した。(ちなみに持統、元明は女帝である。)
「乙巳(いっし)の変」「白村江(はくすきのえ)の戦い」「壬申の乱」と動乱の前世紀であったが、ここへ来て安定してきたのであろう、堂々たる都城の建設が行われたのである。東西4.3km、南北4.8km(天白区の面積と同じくらい)、碁盤割りに区画され、中央に朱雀大路が走る。その北端に平城宮がある。

“鳴くよウグイス平安京”と年号を暗記したように、平安京へ遷都した794年の後には忘れられた都となり、ついには田畑となってしまった。明治・大正期になって歴史考察が行われ、保存会も結成された。平成10年に「朱雀門」が復原され、平成22年には「大極殿」も復原されて「平城遷都1300年祭」が開催された。
大極殿から見て左側、東端に「東院」がある。その東南角に「東院庭園」があった。昭和47年から発掘調査され、平成5年から復原工事が始まり、10年に一般公開された。平安貴族の「寝殿造り」に先立つ日本庭園の原点とも言える庭であり、奈良時代には歴代天皇が宴会や儀式を行っていたという。

「乙巳(いっし)の変」「白村江(はくすきのえ)の戦い」「壬申の乱」と動乱の前世紀であったが、ここへ来て安定してきたのであろう、堂々たる都城の建設が行われたのである。東西4.3km、南北4.8km(天白区の面積と同じくらい)、碁盤割りに区画され、中央に朱雀大路が走る。その北端に平城宮がある。

“鳴くよウグイス平安京”と年号を暗記したように、平安京へ遷都した794年の後には忘れられた都となり、ついには田畑となってしまった。明治・大正期になって歴史考察が行われ、保存会も結成された。平成10年に「朱雀門」が復原され、平成22年には「大極殿」も復原されて「平城遷都1300年祭」が開催された。
大極殿から見て左側、東端に「東院」がある。その東南角に「東院庭園」があった。昭和47年から発掘調査され、平成5年から復原工事が始まり、10年に一般公開された。平安貴族の「寝殿造り」に先立つ日本庭園の原点とも言える庭であり、奈良時代には歴代天皇が宴会や儀式を行っていたという。

岩村の城下町
岩村へ行くには、明知鉄道を使うのが楽しい。中央線で恵那まで行き、明知鉄道に乗り替える。岐阜県には、樽見鉄道・長良川鉄道・養老鉄道そして明知鉄道と4つのローカル鉄道があり、「ぎふローカル鉄道」という連絡会議をつくって活性化に努めている。車体に企業広告のラッピングがしてあった。
岩村の城下町は、近世以来、商業活動の中心地として栄えた商家群の町並みである。重厚な塗屋造りの主屋やなまこ壁の土蔵などが、往時の繁栄を物語っている。伝統的建造物群保存地区に指定されている。通りの中ほどに造り酒屋があって、シンボルともいう杉玉や背丈ほどもある大甕が飾ってあった。

一軒の町屋で、何やら工事が行われている。土台を地面から切り離し、ジャッキで持ち上げている。よく、建物を移動する「曳き屋」に用いられる工法だが、どうもここは移動ではなくて基礎の補強を行うようである。持ち上げておいて頑丈なコンクリート基礎を造るのだろう。耐震補強かもしれない。
どこかのテレビ局の取材ロケ班が、町屋の商店を撮影していた。“古い町並み”での食事やショッピングを紹介する番組であろうか?ディレクター・カメラマン・音声さん・照明用のレフを持った人など、テレビ画面に登場するゲストや司会者以外の人の働きが良い番組に繋がるのだと思う。

岩村の城下町は、近世以来、商業活動の中心地として栄えた商家群の町並みである。重厚な塗屋造りの主屋やなまこ壁の土蔵などが、往時の繁栄を物語っている。伝統的建造物群保存地区に指定されている。通りの中ほどに造り酒屋があって、シンボルともいう杉玉や背丈ほどもある大甕が飾ってあった。

一軒の町屋で、何やら工事が行われている。土台を地面から切り離し、ジャッキで持ち上げている。よく、建物を移動する「曳き屋」に用いられる工法だが、どうもここは移動ではなくて基礎の補強を行うようである。持ち上げておいて頑丈なコンクリート基礎を造るのだろう。耐震補強かもしれない。
どこかのテレビ局の取材ロケ班が、町屋の商店を撮影していた。“古い町並み”での食事やショッピングを紹介する番組であろうか?ディレクター・カメラマン・音声さん・照明用のレフを持った人など、テレビ画面に登場するゲストや司会者以外の人の働きが良い番組に繋がるのだと思う。

中山道「落合の石畳」と「馬籠宿」
「木曽路はすべて山の中である。あるところは岨(そま)づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曽川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた。」島崎藤村『夜明け前』冒頭の一節である。
中山道・木曽路を語ろうとしたとき、この名文を超える説明は無理と思い、そのままお借りした。中央線・中津川駅を出発し、「十曲峠」を越えて馬籠宿まで歩いたことがある。ヤマツツジの咲く早春であったが、山道は険しく汗ばむほどであった。4里(16km)ほどの曲がりくねった坂道である。

川沿いの平坦な道から山地に差し掛かると、「落合の石畳」の登りになる。落合宿と馬籠宿の間の「十曲峠」に至る道である。一時は荒れていたというが、文久元年(1861)の皇女・和宮の通行と明治天皇の行幸のときに修理されたという。今も往時の姿をとどめる石畳は、東海道の箱根(2020・2・8掲載の「金谷宿の石畳」参照)とここだけである。
馬籠宿は、中山道六十九次の43番目の宿場であり、木曽11宿の一番南の宿場である。往時の宿場内の家は69軒、本陣1、脇本陣1、旅籠18軒であった。ほぼ中間地点にある旧本陣は、島崎藤村の生家であり、現在は「藤村記念館」になっている。

中山道・木曽路を語ろうとしたとき、この名文を超える説明は無理と思い、そのままお借りした。中央線・中津川駅を出発し、「十曲峠」を越えて馬籠宿まで歩いたことがある。ヤマツツジの咲く早春であったが、山道は険しく汗ばむほどであった。4里(16km)ほどの曲がりくねった坂道である。

川沿いの平坦な道から山地に差し掛かると、「落合の石畳」の登りになる。落合宿と馬籠宿の間の「十曲峠」に至る道である。一時は荒れていたというが、文久元年(1861)の皇女・和宮の通行と明治天皇の行幸のときに修理されたという。今も往時の姿をとどめる石畳は、東海道の箱根(2020・2・8掲載の「金谷宿の石畳」参照)とここだけである。
馬籠宿は、中山道六十九次の43番目の宿場であり、木曽11宿の一番南の宿場である。往時の宿場内の家は69軒、本陣1、脇本陣1、旅籠18軒であった。ほぼ中間地点にある旧本陣は、島崎藤村の生家であり、現在は「藤村記念館」になっている。

新交通システム「ガイドウェイバス」
大曽根駅から砂田橋方面へ向かって高架道路が走っている。これは高速道路ではなく、路線バス専用の高架橋である。バスは「ガイドウェイバス」という新交通システムである。バスに装着された「案内輪」(下左の写真)により、「ガイドレール」(下中)という専用軌道に沿って走行する。「ゆとりーとライン」という愛称で、平成13年(2001)に開通した。
バスの運転手は、ハンドルに手を触れることのない半自動で運転する。高架道路は、大曽根を起点として庄内川を渡り、小幡緑地まで続く。上左の写真は大曽根のバス回転場、右は小幡緑地駅で、最寄りに守山スポーツセンターがある。駅の乗り場には、エレベーターで昇り降りする。

バスは、小幡緑地駅から斜路により地上の一般道路へ降りる。ここからは普通の路線バスに様変わりする。龍泉寺から高蔵寺まで、志段味方面を廻るルートもある。この2面性が新しい方式であり、メリットでもある。従前は、小幡から大曽根までは渋滞により1時間以上もかかることがあった。今は専用軌道を13分で通過することができる。
このガイドウェイという方式は、ドイツで初めて採用されたという。しかし高架の専用レーンをもつのは名古屋が最初で唯一である。これまでの交通手段はJR中央線と名鉄瀬戸線に頼っていたが、新システムによって志段味へは格段に便利になった。志段味は、大規模な区画整理が進行中である。

バスの運転手は、ハンドルに手を触れることのない半自動で運転する。高架道路は、大曽根を起点として庄内川を渡り、小幡緑地まで続く。上左の写真は大曽根のバス回転場、右は小幡緑地駅で、最寄りに守山スポーツセンターがある。駅の乗り場には、エレベーターで昇り降りする。

バスは、小幡緑地駅から斜路により地上の一般道路へ降りる。ここからは普通の路線バスに様変わりする。龍泉寺から高蔵寺まで、志段味方面を廻るルートもある。この2面性が新しい方式であり、メリットでもある。従前は、小幡から大曽根までは渋滞により1時間以上もかかることがあった。今は専用軌道を13分で通過することができる。
このガイドウェイという方式は、ドイツで初めて採用されたという。しかし高架の専用レーンをもつのは名古屋が最初で唯一である。これまでの交通手段はJR中央線と名鉄瀬戸線に頼っていたが、新システムによって志段味へは格段に便利になった。志段味は、大規模な区画整理が進行中である。

大曽根の商店街「OZモール」
大曽根の商店街は、かつて、大須と並ぶ賑やかなアーケード街であったが、大曽根駅一帯の再開発事業により生まれ変わった。アーケードの屋根は撤去し、セットバックにより歩道空間を広くして解放感を演出している。集合的な建物でなく、店舗を一戸建てとし、歩道に向かって三角の屋根が並ぶように統一している。
商店街へ入るには、個性的なモニュメントを潜る。電線は地中化され、電柱はない。トランスは歩道のボックスに収められているが、そのボックスはモニュメントの台座になっている。彫像のテーマは「オズの魔法使い」。ドロシーや魔女、案山子やブリキの木こり、ライオンなどが飾られている。

OZ(オズ)モールは、「大曽根のモール」のイメージであり、「オズの魔法使い」は語呂合わせであろう。三角屋根の三階建に統一された建築、標識やサイン類を同じデザインにした街並みなどにより、先端的な街づくり事例として全国的にも注目を集めている。1993年には第1回愛知まちなみ建築賞を受賞している。
モールの中間地点に小さな街園がある。石の列柱と舗装広場、ここにも三角形にこだわった噴水がある。真ん中に「門」の形をした石造モニュメントがある。しかしよくよく見ると、これは「ギロチン」の形をしている。気づかずに通り過ぎる人を見て、設計者はほくそ笑んでいるのではなかろうか?

商店街へ入るには、個性的なモニュメントを潜る。電線は地中化され、電柱はない。トランスは歩道のボックスに収められているが、そのボックスはモニュメントの台座になっている。彫像のテーマは「オズの魔法使い」。ドロシーや魔女、案山子やブリキの木こり、ライオンなどが飾られている。

OZ(オズ)モールは、「大曽根のモール」のイメージであり、「オズの魔法使い」は語呂合わせであろう。三角屋根の三階建に統一された建築、標識やサイン類を同じデザインにした街並みなどにより、先端的な街づくり事例として全国的にも注目を集めている。1993年には第1回愛知まちなみ建築賞を受賞している。
モールの中間地点に小さな街園がある。石の列柱と舗装広場、ここにも三角形にこだわった噴水がある。真ん中に「門」の形をした石造モニュメントがある。しかしよくよく見ると、これは「ギロチン」の形をしている。気づかずに通り過ぎる人を見て、設計者はほくそ笑んでいるのではなかろうか?

国鉄「武豊線」あれこれ
先月の6月5日に、半田駅の跨線橋が撤去された。駅舎とホームをつなぐ階段と橋である。建設されたのは明治43年(1910)、日本最古の跨線橋と言われていた。惜しむ声も多かったが、路線の高架化事業が始まるので止むを得ないのであろう。駅前公園への移転が決まっているという。

もう一つ最古の施設は、亀崎駅である。武豊線開通とともに建てられたというので、明治19年(1886)以来の建物である。武豊線は、我が国最初の鉄道「新橋―横浜間」(明治5年=1872)からわずか14年後の開通である。これは、東海道線建設のために、武豊港から熱田駅まで資材を運ぶために敷設されたものである。

終点の武豊停車場(旧駅)には、転車台が保存されている。機関車の方向を変える装置である。かつてサンフランシスコを訪れたときに、有名なケーブルカーの始終点で、手動で回転させるのを見たことがある。最近では、大井川鐵道の新金谷駅と千頭駅で体験した。

◆「JR最古の跨線橋」・・・2018・6・16参照
◆「亀崎駅」・・・2013・4・9参照
◆「武豊停車場と転車台」・・・2013・4・2参照
◆「新金谷駅のSLターンテーブル」・・・2019・7・25参照
◆「千頭駅の転車台」・・・2019・8・29参照

もう一つ最古の施設は、亀崎駅である。武豊線開通とともに建てられたというので、明治19年(1886)以来の建物である。武豊線は、我が国最初の鉄道「新橋―横浜間」(明治5年=1872)からわずか14年後の開通である。これは、東海道線建設のために、武豊港から熱田駅まで資材を運ぶために敷設されたものである。

終点の武豊停車場(旧駅)には、転車台が保存されている。機関車の方向を変える装置である。かつてサンフランシスコを訪れたときに、有名なケーブルカーの始終点で、手動で回転させるのを見たことがある。最近では、大井川鐵道の新金谷駅と千頭駅で体験した。

◆「JR最古の跨線橋」・・・2018・6・16参照
◆「亀崎駅」・・・2013・4・9参照
◆「武豊停車場と転車台」・・・2013・4・2参照
◆「新金谷駅のSLターンテーブル」・・・2019・7・25参照
◆「千頭駅の転車台」・・・2019・8・29参照