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鵜沼宿
鵜沼(美濃)と犬山(尾張)は木曽川を挟んだ対岸に位置し、互いに牽制し合っていた。鵜沼城は15世紀の中ごろに、土岐氏や斉藤氏に仕えた大沢氏が築城したという。現在の犬山橋を渡った、右側に見える岩山が城跡である。その城下に、中山道の鵜沼宿があった。
鵜沼宿は江戸から数えて52番目の宿場で、太田宿と加納宿(岐阜市・2014・5・23参照)の中間にある。太田宿とは3里(12km)ほどであるが、加納宿へは4里以上と長い距離がある。うとう峠を越えて東の見付を曲がると大安寺川の橋を渡る。橋のたもとに大きな枝垂れ柳が植えてあった。

街道の両側には黒い塀や板壁など、かつての旅籠の面影を残す住宅が並んでいる。右には本陣、脇本陣が並んでいたが、本陣は明治になって取り壊され、今は普通の住宅が建っている。脇本陣も失われていたが、古い図面が残っていたため最近復元された。
左側に大きな土蔵造りの建物が2棟並んでいる。これは「菊川酒造」の工場で、今も製造を行っている。この宿場町も近代化が進んでいたが、近年、景観重要建造物の保存改修や脇本陣の復元を行うとともに、電線の地中化やせせらぎ水路を整備するなど景観の保全に力を入れている。

鵜沼宿は江戸から数えて52番目の宿場で、太田宿と加納宿(岐阜市・2014・5・23参照)の中間にある。太田宿とは3里(12km)ほどであるが、加納宿へは4里以上と長い距離がある。うとう峠を越えて東の見付を曲がると大安寺川の橋を渡る。橋のたもとに大きな枝垂れ柳が植えてあった。

街道の両側には黒い塀や板壁など、かつての旅籠の面影を残す住宅が並んでいる。右には本陣、脇本陣が並んでいたが、本陣は明治になって取り壊され、今は普通の住宅が建っている。脇本陣も失われていたが、古い図面が残っていたため最近復元された。
左側に大きな土蔵造りの建物が2棟並んでいる。これは「菊川酒造」の工場で、今も製造を行っている。この宿場町も近代化が進んでいたが、近年、景観重要建造物の保存改修や脇本陣の復元を行うとともに、電線の地中化やせせらぎ水路を整備するなど景観の保全に力を入れている。

引用
有楽苑の飛び石
「千利休は渡り六分に景気(景色)四分、古田織部は渡り四分に景気六分」と言ったという。「渡り」とは歩きやすさであり、「景気」とは美しさのことである。庭の園路の中で、「飛び石」や「延べ段」は「用」にも「美」にも重要な役割を果たしている。
犬山城の東にある「有楽苑」は、国宝「如庵」を擁する名園である。「如庵」は織田有楽斎が、京都・建仁寺の正伝院に、元和4年(1618)に建てた茶室である。訳あってこの地に移築されたが、庭園も有楽好みがそのまま移されたものである。(2020・4・26「国宝・如庵」参照)

この名園には何度も訪れているが、その度に飛び石の美しさに感動する。苑内には「如庵」を始め、「書院」や「元庵」「弘庵」といった茶室が建てられているが、それらを結ぶ動線にデザインの良い飛び石や延べ段が設えてあるのだ。用も美も備えた通路である。
有楽苑発行の案内図をお借りして、飛び石・延べ段・霰こぼし(小石を敷き詰めたもの)などの位置と写真を掲載する。「岩栖門(いわすもん)」から入って、「旧正伝院書院」から「含翠門」へ、「弘庵」から「萱門」をくぐって「書院」、「如庵」に至る。最後は「有楽好みの井筒」である。


犬山城の東にある「有楽苑」は、国宝「如庵」を擁する名園である。「如庵」は織田有楽斎が、京都・建仁寺の正伝院に、元和4年(1618)に建てた茶室である。訳あってこの地に移築されたが、庭園も有楽好みがそのまま移されたものである。(2020・4・26「国宝・如庵」参照)

この名園には何度も訪れているが、その度に飛び石の美しさに感動する。苑内には「如庵」を始め、「書院」や「元庵」「弘庵」といった茶室が建てられているが、それらを結ぶ動線にデザインの良い飛び石や延べ段が設えてあるのだ。用も美も備えた通路である。
有楽苑発行の案内図をお借りして、飛び石・延べ段・霰こぼし(小石を敷き詰めたもの)などの位置と写真を掲載する。「岩栖門(いわすもん)」から入って、「旧正伝院書院」から「含翠門」へ、「弘庵」から「萱門」をくぐって「書院」、「如庵」に至る。最後は「有楽好みの井筒」である。


犬山城下「旧奥村邸」の庭園
犬山城下には、古いお屋敷がたくさん残っている。その中に「旧奥村邸」がある。この建物は、江戸時代の呉服商・奥村氏の住宅である。天保13年(1842)の犬山大火の直後に建設された。瓦葺の二階建てで、壁は黒い漆喰塗りである。
明治32年(1899)に大規模な修復が行われたが江戸後期の町屋の形態を留めており、貴重な文化遺産といえる。庭園も往時の様子を色濃く残している。門をくぐると右側に玄関があり、飛び石に導かれて真っ直ぐに進むと、塀に囲まれた中庭に至る。

手入れの行き届いた庭木や草花、蘚(こけ)が美しい。各種の灯籠や手水鉢も年代を感じさせる。水琴窟の蹲踞もある。土蔵の横に「銀明水」が湧き出ている。これは木曽川の伏流水で、織田信長が武田勝頼攻めのときに立ち寄って、この水を飲んだと伝えられている。
建物は、江戸末期の主屋・棟門・米蔵、大正時代までに建てられた金庫蔵・道具蔵・離れ・納屋・渡り廊下・東高塀の9件が登録有形文化財に登録されている。現在、フランチ創作料理の「なり多」として営業している。


明治32年(1899)に大規模な修復が行われたが江戸後期の町屋の形態を留めており、貴重な文化遺産といえる。庭園も往時の様子を色濃く残している。門をくぐると右側に玄関があり、飛び石に導かれて真っ直ぐに進むと、塀に囲まれた中庭に至る。

手入れの行き届いた庭木や草花、蘚(こけ)が美しい。各種の灯籠や手水鉢も年代を感じさせる。水琴窟の蹲踞もある。土蔵の横に「銀明水」が湧き出ている。これは木曽川の伏流水で、織田信長が武田勝頼攻めのときに立ち寄って、この水を飲んだと伝えられている。
建物は、江戸末期の主屋・棟門・米蔵、大正時代までに建てられた金庫蔵・道具蔵・離れ・納屋・渡り廊下・東高塀の9件が登録有形文化財に登録されている。現在、フランチ創作料理の「なり多」として営業している。


犬山頭首工・ライン大橋
犬山城の少し下流に「堰」がある。「犬山頭首工ライン大橋」という。「頭首工」とは、河川から用水へ水を取り入れる低いダムのことを言う。この堰の前後は重要な交通路ともなっていて、下流側に車道(操作橋)、上流側に歩道(管理橋)が並行して走っている。延長は420mである。
頭首工は、愛知県側の木津用水・宮田用水、岐阜県側の羽島用水へ取水するために建設された。完成は昭和37年(1962)である。頭首工には合計10基のゲートがある。用途は3種類ある。土砂吐2門・可動堰6門・魚道2門である。

3つの用水はそれぞれ古い歴史をもつ。古くは平安の昔から、濃尾平野を流れる小さな川を利用していた。江戸時代になって木曽川左岸に「御囲堤」ができると、小さな川は締め切られて木曽川からの取水ができなくなった。そのため堤防に杁(取水のための水門)を造り、用水に流して田を灌漑したのである。
「宮田用水」は慶長3年(1608)に原型ができ、江南や一宮に水を引いた。「木津用水」は慶安元年(1648)に開削され、小牧や春日井を流れている。岐阜県側も水不足に苦しめられてきた。「羽島用水」は比較的新しく、完成は昭和7年(1932)である。3つの用水の延長は45km、付随する用水網を合計すると260kmにもなるという。犬山頭首工は3つの用水の合同取水のための堰である。


頭首工は、愛知県側の木津用水・宮田用水、岐阜県側の羽島用水へ取水するために建設された。完成は昭和37年(1962)である。頭首工には合計10基のゲートがある。用途は3種類ある。土砂吐2門・可動堰6門・魚道2門である。

3つの用水はそれぞれ古い歴史をもつ。古くは平安の昔から、濃尾平野を流れる小さな川を利用していた。江戸時代になって木曽川左岸に「御囲堤」ができると、小さな川は締め切られて木曽川からの取水ができなくなった。そのため堤防に杁(取水のための水門)を造り、用水に流して田を灌漑したのである。
「宮田用水」は慶長3年(1608)に原型ができ、江南や一宮に水を引いた。「木津用水」は慶安元年(1648)に開削され、小牧や春日井を流れている。岐阜県側も水不足に苦しめられてきた。「羽島用水」は比較的新しく、完成は昭和7年(1932)である。3つの用水の延長は45km、付随する用水網を合計すると260kmにもなるという。犬山頭首工は3つの用水の合同取水のための堰である。


犬山城崖下の橋と隧道
犬山城は、木曽川から切り立った崖の上に聳えている。船で着岸して攻めようにも、鎧兜を着て崖を登ることは不可能であろう。そのような崖を切り裂いて、昭和4年(1929)に観光のための道路が造られた。城の東には、濠を兼ねた郷瀬川が流れている。その河口部に「彩雲橋」が架けられた。
岩盤をコンクリートで補足しながら橋台と橋脚を築く。鉄材は、鉄道のレールを利用している。2連のアーチ橋、緑色に塗装された瀟洒なデザインである。橋上を走っていると、手すりがコンクリート製なので、ごく平凡な橋にしか見えない。しかし下から眺めると、3mほどの滝とともに一服の絵画のようである。今年、土木学会選奨の土木遺産に認定された。

一方通行の狭い道を西に進むとトンネルがある。長さ20mほど、幅も高さも2.5mほどと小さな「隧道」であるが、何と手掘りで穿ったものである。トンネルの壁はモルタルなどが塗られておらず、岩盤が剥き出しである。ここの地層はチャートと呼ばれる堆積岩であり、その褶曲を見ることができる。
このトンネルは、道路開通のために掘ったものではなく、名古屋市が木曽川から水道を引くため造った取水口を管理するために穿ったものである(大正3年完成)。現在は使われていないが、水門のローラーゲートが今も残されている(写真の矢印)。観光道路整備に当たり、この古いトンネルが利用されたのである。


岩盤をコンクリートで補足しながら橋台と橋脚を築く。鉄材は、鉄道のレールを利用している。2連のアーチ橋、緑色に塗装された瀟洒なデザインである。橋上を走っていると、手すりがコンクリート製なので、ごく平凡な橋にしか見えない。しかし下から眺めると、3mほどの滝とともに一服の絵画のようである。今年、土木学会選奨の土木遺産に認定された。

一方通行の狭い道を西に進むとトンネルがある。長さ20mほど、幅も高さも2.5mほどと小さな「隧道」であるが、何と手掘りで穿ったものである。トンネルの壁はモルタルなどが塗られておらず、岩盤が剥き出しである。ここの地層はチャートと呼ばれる堆積岩であり、その褶曲を見ることができる。
このトンネルは、道路開通のために掘ったものではなく、名古屋市が木曽川から水道を引くため造った取水口を管理するために穿ったものである(大正3年完成)。現在は使われていないが、水門のローラーゲートが今も残されている(写真の矢印)。観光道路整備に当たり、この古いトンネルが利用されたのである。


犬山城の外堀
犬山城外堀の発掘調査が行われている。場所は大手門と城下町の境界辺りである。見つかった外堀の幅は17.5m、深さは6.5m。水のない空堀で、石垣を造らない素掘りであったことも判明した。これは、江戸時代に描かれた絵図やその記載とほぼ一致しているという。
木曽川左岸に位置する犬山は、尾張と美濃の国堺に当たり、交通上・軍事上の要衝であった。それ以前から城があったが、現在の位置に建てられたのは文禄4年(1595)のことである。江戸時代になって、家康の9男・義直が尾張藩主となるとその御付家老・成瀬氏が入城することとなった。

明治になって廃城となり、門などは撤去され堀は埋められてしまった。しかし天守は保存され、国宝指定された5城のひとつに数えられている。ちなみに他の4城は、姫路城・松本城・彦根城・松江城である。残念ながら、戦前に真っ先に国宝指定された名古屋城は、戦災で焼けてしまった。
犬山城は、つい最近まで個人所有であったことでも有名である。平成16年に公益社団法人に移管された。城の南一帯に並ぶ町屋は、今も古建築が残されている。現在、「伝統的建造物群保存地区」に指定すべく委員会を立ち上げて準備している。指定されれば、愛知県では足助、有松に次いで3番目となる。

木曽川左岸に位置する犬山は、尾張と美濃の国堺に当たり、交通上・軍事上の要衝であった。それ以前から城があったが、現在の位置に建てられたのは文禄4年(1595)のことである。江戸時代になって、家康の9男・義直が尾張藩主となるとその御付家老・成瀬氏が入城することとなった。

明治になって廃城となり、門などは撤去され堀は埋められてしまった。しかし天守は保存され、国宝指定された5城のひとつに数えられている。ちなみに他の4城は、姫路城・松本城・彦根城・松江城である。残念ながら、戦前に真っ先に国宝指定された名古屋城は、戦災で焼けてしまった。
犬山城は、つい最近まで個人所有であったことでも有名である。平成16年に公益社団法人に移管された。城の南一帯に並ぶ町屋は、今も古建築が残されている。現在、「伝統的建造物群保存地区」に指定すべく委員会を立ち上げて準備している。指定されれば、愛知県では足助、有松に次いで3番目となる。

矢作ダム(奥矢作湖)
もう一度、奥矢作揚水発電所の仕組みを見てもらおう(2021・10・12「揚水発電所」参照)。上池である「黒田貯水池」と下池の「矢作貯水池(奥矢作湖)」との落差は560mにも及ぶ。しかし、その直線距離はわずかに6kmである。1km当たり約100mの下降という急勾配である。
この地形に目を付けて、揚水発電所を企図した眼力に敬意を表したい。黒田ダムの完成は、昭和8年(1933)であるが、それを2倍に増強して「揚水発電所」にしたのは昭和55年(1980)である。黒田発電所の出力は3100kwだったが、現在は第一・第二発電所により約11000kwが発電される。

矢作川は、三河地方にあっては豊川と並ぶ大河川である。茶臼山高原を水源とし、愛知・岐阜の県境を流れる。豊田・岡崎を経て西尾・碧南の境を三河湾に注ぐ。延長117km、流域面積1830k㎡の一級河川である。古くから下流域に、洪水という災害と利水という恩恵をもたらしてきた。
矢作ダムは、昭和45年(1970)に完成した。高さ100m、長さ321mのアーチ式コンクリートダムである。洪水調整・不特定利水・かんがい・上水道・工業用水道・発電と6つの用途に使われる。周辺は景観が良く、「愛知高原国定公園」の一角を占めている。今年、完成50周年の節目を迎えた。


この地形に目を付けて、揚水発電所を企図した眼力に敬意を表したい。黒田ダムの完成は、昭和8年(1933)であるが、それを2倍に増強して「揚水発電所」にしたのは昭和55年(1980)である。黒田発電所の出力は3100kwだったが、現在は第一・第二発電所により約11000kwが発電される。

矢作川は、三河地方にあっては豊川と並ぶ大河川である。茶臼山高原を水源とし、愛知・岐阜の県境を流れる。豊田・岡崎を経て西尾・碧南の境を三河湾に注ぐ。延長117km、流域面積1830k㎡の一級河川である。古くから下流域に、洪水という災害と利水という恩恵をもたらしてきた。
矢作ダムは、昭和45年(1970)に完成した。高さ100m、長さ321mのアーチ式コンクリートダムである。洪水調整・不特定利水・かんがい・上水道・工業用水道・発電と6つの用途に使われる。周辺は景観が良く、「愛知高原国定公園」の一角を占めている。今年、完成50周年の節目を迎えた。


④前橋
今も使用されている橋が1つあった。「前橋」という。「どんぐりの湯」から国道153号をさらに北へ進み、長野との県境・大野瀬トンネルの手前にある。現在の「新前橋」を渡ったすぐの左側に見ることができる。矢作川の支流・野入川に架かる橋である。大正8年に開通した。
橋長約17m、幅員4mのRC開腹アーチ橋である。橋のたもとに木製の看板があって、そこに建設中の写真が掲げられている。足場に支えられた、まだ型枠の残るコンクリートアーチが写っている。橋台は、がっしりした石積みで出来ている。建設に携わった人たちも写っている。

看板には、映画「星めぐりの町」撮影の模様が説明してある。監督・黒土三男により、小林稔侍・荒井陽太・壇蜜などが出演している。各地の映画祭でグランプリを受賞した名作である。豊田市一帯でロケが行われたが、大野瀬町の「前橋」は、映画を象徴するシーンとして何度も登場するという。

◆◆これで4つの橋の報告を終わります。共通して感じることは、100年以上の橋がよくぞ残されたとの思いです。新しい橋が完成すれば、古い橋は“御用済み”となり、撤去されたかもしれません。地域の人々の愛着があったのでしょう。今、豊田市が修繕を検討しています。映画撮影に使われたように、古い橋なりの活かされ方が見つかればいいと思います。◆◆

橋長約17m、幅員4mのRC開腹アーチ橋である。橋のたもとに木製の看板があって、そこに建設中の写真が掲げられている。足場に支えられた、まだ型枠の残るコンクリートアーチが写っている。橋台は、がっしりした石積みで出来ている。建設に携わった人たちも写っている。

看板には、映画「星めぐりの町」撮影の模様が説明してある。監督・黒土三男により、小林稔侍・荒井陽太・壇蜜などが出演している。各地の映画祭でグランプリを受賞した名作である。豊田市一帯でロケが行われたが、大野瀬町の「前橋」は、映画を象徴するシーンとして何度も登場するという。

◆◆これで4つの橋の報告を終わります。共通して感じることは、100年以上の橋がよくぞ残されたとの思いです。新しい橋が完成すれば、古い橋は“御用済み”となり、撤去されたかもしれません。地域の人々の愛着があったのでしょう。今、豊田市が修繕を検討しています。映画撮影に使われたように、古い橋なりの活かされ方が見つかればいいと思います。◆◆
