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岡崎の大樹寺
大樹寺は松平家(徳川将軍家の祖)の菩提寺で、岡崎城の3km真北にある。文明7年(1475)に松平4代親忠が、古くから菩提寺である松平郷・高月院(2014・11・22参照)から分骨して開基した。松平郷からは南に約7km、岡崎城との中間に位置する。
本堂の裏手に、瓦積みの土塀に囲われた墓所がある。松平初代の親氏から8代広忠までのお墓が並んでいる。ちなみに9代が松平元康、すなわち徳川家康である。大樹寺保存会により昭和44年に、家康の墓碑も並んで建てられている。

駐車場からは、最初に鐘楼を見ることになる。続いて堂々とした山門、寛永18年(1641)に3代将軍・家光が建立した。その西に多宝塔、天文4年(1535)と古く、山門とともに国の重要文化財に指定されている。中心にある本堂からは山門・総門を額縁として岡崎城が見えるようになっている。
ところが山門の前には道路が走っており、その南の敷地は小学校である。総門は小学校運動場の南端に建っている。総門と山門の間にあった塔頭などは撤去されたのであろうか?この状況は名古屋・東区にある建中寺(戦後の区画整理で公園に) と同じで、明治以降の廃仏希釈など逆風に晒された結果であろうと思われる。
今年の大河ドラマ「晴天を衝け」の主人公は渋沢栄一であるが、最後の将軍・徳川慶喜も重要な役どころであった。面白いことに、番組の冒頭に家康が登場してコメントを述べる。最初の将軍・家康は75歳という長命であり、慶喜も大正2年まで生き延びて77歳の生涯を全うした。徳川将軍中では最高齢であり、今で言うなら100歳といったところか!?

令和3年(2021)のブログ発信はこれが最終回です。今年もコロナのため取材が思うようにできず、古い旅行の写真を使って凌ぎました。ご覧いただき感謝しています。来年こそは、自由に行動できるような年になってほしいと願っています。乞うご期待!!
本堂の裏手に、瓦積みの土塀に囲われた墓所がある。松平初代の親氏から8代広忠までのお墓が並んでいる。ちなみに9代が松平元康、すなわち徳川家康である。大樹寺保存会により昭和44年に、家康の墓碑も並んで建てられている。

駐車場からは、最初に鐘楼を見ることになる。続いて堂々とした山門、寛永18年(1641)に3代将軍・家光が建立した。その西に多宝塔、天文4年(1535)と古く、山門とともに国の重要文化財に指定されている。中心にある本堂からは山門・総門を額縁として岡崎城が見えるようになっている。
ところが山門の前には道路が走っており、その南の敷地は小学校である。総門は小学校運動場の南端に建っている。総門と山門の間にあった塔頭などは撤去されたのであろうか?この状況は名古屋・東区にある建中寺(戦後の区画整理で公園に) と同じで、明治以降の廃仏希釈など逆風に晒された結果であろうと思われる。
今年の大河ドラマ「晴天を衝け」の主人公は渋沢栄一であるが、最後の将軍・徳川慶喜も重要な役どころであった。面白いことに、番組の冒頭に家康が登場してコメントを述べる。最初の将軍・家康は75歳という長命であり、慶喜も大正2年まで生き延びて77歳の生涯を全うした。徳川将軍中では最高齢であり、今で言うなら100歳といったところか!?

令和3年(2021)のブログ発信はこれが最終回です。今年もコロナのため取材が思うようにできず、古い旅行の写真を使って凌ぎました。ご覧いただき感謝しています。来年こそは、自由に行動できるような年になってほしいと願っています。乞うご期待!!
長良大橋と犀川制水樋門
ニューヨーク・ウォール街で昭和4年(1927)に起こった株の大暴落をきっかけに、世界大恐慌が始まった。その影響を受け、日本経済も大混乱を巻き起こした。政府は積極的な財政支出を推進し、農村を中心に大規模な公共土木工事を行なったのである。
長良大橋の建設は、失業者への救済対策のひとつとして行われた。昭和8年完成。全長約385m、幅員15mの曲線ワーレントラス橋である。当初は、鉄道も併用する予定であったので、リベットを多用した重厚な構造となっている。橋の上から上流を眺めると、左側に墨俣城を見ることができる。

「墨俣城」いわゆる「一夜城」は、永禄9年(1566)織田信長の美濃攻めの際、木下藤吉郎が短期間に築いたという。河川を越えて敵方に造る拠点を「橋頭堡」という。この砦を足掛かりに信長は美濃攻めを成功させる。藤吉郎の出世ストーリーである。
(水際にお城の形の歴史博物館が建っている。ただ、名古屋城や大垣城に似た天守閣の形態は、
歴史考察的にいかがなものだろう?)
五六川は、犀川と合流したのち長良川に注ぐ。下の写真は、本流と並行して流れる水路の水をコントロールするための樋門である。鉄筋コンクリート造り、昭和9年(1934)に完成した。後方に見えるのは本流との間の水門である。


長良大橋の建設は、失業者への救済対策のひとつとして行われた。昭和8年完成。全長約385m、幅員15mの曲線ワーレントラス橋である。当初は、鉄道も併用する予定であったので、リベットを多用した重厚な構造となっている。橋の上から上流を眺めると、左側に墨俣城を見ることができる。

「墨俣城」いわゆる「一夜城」は、永禄9年(1566)織田信長の美濃攻めの際、木下藤吉郎が短期間に築いたという。河川を越えて敵方に造る拠点を「橋頭堡」という。この砦を足掛かりに信長は美濃攻めを成功させる。藤吉郎の出世ストーリーである。
(水際にお城の形の歴史博物館が建っている。ただ、名古屋城や大垣城に似た天守閣の形態は、
歴史考察的にいかがなものだろう?)
五六川は、犀川と合流したのち長良川に注ぐ。下の写真は、本流と並行して流れる水路の水をコントロールするための樋門である。鉄筋コンクリート造り、昭和9年(1934)に完成した。後方に見えるのは本流との間の水門である。


牛牧(五六)閘門
岐阜城から10kmほど下流に長良大橋が架かっている。そこに長良川の支流、五六川と犀川が合流している。五六川下流の牛牧・祖父江地区は土地が最も低く、海抜5~6mにすぎない。そのため、大雨の度に長良川から五六川への逆流による浸水で村々は苦しんでいた。
寛延2年(1749)、幕府直轄地の代官に赴任してきた川崎平右衛門は、この悲惨な状況に心を痛め、牛牧の地に閘門を造ろうと考えた。長い間幕府に働きかけ、ついに宝暦7年(1757)に閘門の完成をみることとなる。これによって川沿いの村々は水害から守られたのである。

村人たちは、川崎代官の偉徳を偲んで閘門の近くに神社を建てた。「川崎神社」と称する。今も閘門を渡った直ぐの路傍に、小さな祠が祀られている。現在の閘門は明治40年(1907)に再建されたもので、江戸時代の姿を見ることはできない。
閘門には2基の扉がある。上部の両脇と、下部の中央に階段が設けられている。洪水時には、人の手で扉を閉めるのであろう。構造は石張りであるが、石と石の間は「長七たたき」で固められている。この方法は、コンクリート工法が普及する以前に利用されてきたものである。

寛延2年(1749)、幕府直轄地の代官に赴任してきた川崎平右衛門は、この悲惨な状況に心を痛め、牛牧の地に閘門を造ろうと考えた。長い間幕府に働きかけ、ついに宝暦7年(1757)に閘門の完成をみることとなる。これによって川沿いの村々は水害から守られたのである。

村人たちは、川崎代官の偉徳を偲んで閘門の近くに神社を建てた。「川崎神社」と称する。今も閘門を渡った直ぐの路傍に、小さな祠が祀られている。現在の閘門は明治40年(1907)に再建されたもので、江戸時代の姿を見ることはできない。
閘門には2基の扉がある。上部の両脇と、下部の中央に階段が設けられている。洪水時には、人の手で扉を閉めるのであろう。構造は石張りであるが、石と石の間は「長七たたき」で固められている。この方法は、コンクリート工法が普及する以前に利用されてきたものである。

忠節の特殊堤と今泉排水機場
忠節橋(2017・11・01参照)の上流に面白い欄干がある。これは、歩道からの転落防止を兼ねているが、実は護岸堤防の一部なのである。真ん中の写真を見てもらうと、コンクリートの柱にスリットが入っているのが見て取れる。「特殊堤」というこの構造物は、何気なく見ているとその秘密は分からない。
実はこれは、大雨のときに「たたみ」を挟むことにより、洪水を防ぐ装置なのである(昭和15年に完成)。忠節橋までの間、延々と続いているところを見ると、近隣の多くの住民が自宅の畳を剥がしてここへ持ち寄ったのであろう。長良川の洪水被害の厳しさと住民の知恵を感ずることができる。

忠節橋の500mほど下流に、今泉排水機場がある(昭和8年完成)。長良川の堤防の陸地側に水門と排水ポンプ室が設置されている。この地域一帯は地盤が低く、大雨が降ると長良川の水位の方が高くなってしまう。いわゆる天井川である。
川の水が陸地側に逆流しないように水門を閉鎖すると、陸側に溜まった水が排水できなくなる。排水機場の大きなポンプで、水を汲み上げることにより水害を防ぐ装置である。近所の住民の方に話しを聞いた。かつて、床下浸水や自動車が水に浸かる被害に遭ったが、今は大丈夫だと話していた。

実はこれは、大雨のときに「たたみ」を挟むことにより、洪水を防ぐ装置なのである(昭和15年に完成)。忠節橋までの間、延々と続いているところを見ると、近隣の多くの住民が自宅の畳を剥がしてここへ持ち寄ったのであろう。長良川の洪水被害の厳しさと住民の知恵を感ずることができる。

忠節橋の500mほど下流に、今泉排水機場がある(昭和8年完成)。長良川の堤防の陸地側に水門と排水ポンプ室が設置されている。この地域一帯は地盤が低く、大雨が降ると長良川の水位の方が高くなってしまう。いわゆる天井川である。
川の水が陸地側に逆流しないように水門を閉鎖すると、陸側に溜まった水が排水できなくなる。排水機場の大きなポンプで、水を汲み上げることにより水害を防ぐ装置である。近所の住民の方に話しを聞いた。かつて、床下浸水や自動車が水に浸かる被害に遭ったが、今は大丈夫だと話していた。

忠節用水第2樋門と御手洗池
忠節用水は、金華山山麓の鏡岩に取り入れ口をもつ農業用水である。江戸時代からすでにあったと言われている。水量調節や洪水時の締め切りのための樋門が5か所あるという。現在の第2樋門は、昭和8年(1933)に建てられたものである。
樋門本体は鉄筋コンクリート製、上部にある制御室は煉瓦造りである。水門の壁は、玉石張りであるが、前回掲載した「鏡岩水源地」の建物(昭和5年)とよく似て、長良川の川原石が埋め込まれている。同じ設計者によるものだろうか?ゲートは平成4年に取り換えられた。


金華山南麓の忠節用水沿いには、いろいろな施設が立地している。鏡岩水源地の隣には護国神社がある。岐阜公園の南端も伸びていて、中国風の「日中友好庭園」がある。「金華山トンネル」のある国道256号で隔てられているが、螺旋階段のある歩道橋で本園とつながっている。
中国庭園に接して高い岩壁があり、ここに一条の滝が流れている。滝壺の池を「御手洗池(みたらしいけ)」という。山の裏側には昔「伊奈波神社」があり、この池で手を洗って参拝したことからこの名がついた。関ヶ原合戦で石田方の岐阜城は落城した。その時、奥女中らはこの池に投身したという。

樋門本体は鉄筋コンクリート製、上部にある制御室は煉瓦造りである。水門の壁は、玉石張りであるが、前回掲載した「鏡岩水源地」の建物(昭和5年)とよく似て、長良川の川原石が埋め込まれている。同じ設計者によるものだろうか?ゲートは平成4年に取り換えられた。


金華山南麓の忠節用水沿いには、いろいろな施設が立地している。鏡岩水源地の隣には護国神社がある。岐阜公園の南端も伸びていて、中国風の「日中友好庭園」がある。「金華山トンネル」のある国道256号で隔てられているが、螺旋階段のある歩道橋で本園とつながっている。
中国庭園に接して高い岩壁があり、ここに一条の滝が流れている。滝壺の池を「御手洗池(みたらしいけ)」という。山の裏側には昔「伊奈波神社」があり、この池で手を洗って参拝したことからこの名がついた。関ヶ原合戦で石田方の岐阜城は落城した。その時、奥女中らはこの池に投身したという。

岐阜市・鏡岩水源地
岐阜市には17か所の水源地があるが、最も古くて最も大規模なのが「鏡岩水源地」である。金華山の南麓と長良川に挟まれた位置にある。原水は伏流水と地下水。伏流水は長良川に沿って浅い地下を流れるもので、地下水は雨水や融雪水が地下深く浸透したものである。
水質が良いので、最低限の消毒のみで配水することができる。鏡岩水源地は、昭和5年から稼働している。水量が多く、今も市内の配水量の30%を占めている。現在の建物は、昭和40年代に建てられたものであるが、当初の建物も残されていて「水の資料館」「水の体験学習館」として再利用されている。

入口の門は、アーチ式の凱旋門のような形をしている。門に連なってレンガ造りの長い塀が敷地を囲んでいる。どちらも開設当時のものであろう。現在の建物の裏側に、古い「ポンプ室」と「エンジン室」が保存・活用されている。鉄骨造りおよび鉄筋コンクリート造りの平屋建てである。
入口や窓はアーチを基調とし、明かり取りは丸窓となっている。外壁全体は長良川の川原石で埋めつくされ、四隅のみ白い花崗岩を積み上げてアクセントとしている。
敷地の片隅に、古い発電機が展示してある。これは、揖斐川支流の「小宮神発電所」で明治41年から昭和57年まで使われていたアメリカ製の機械である。


水質が良いので、最低限の消毒のみで配水することができる。鏡岩水源地は、昭和5年から稼働している。水量が多く、今も市内の配水量の30%を占めている。現在の建物は、昭和40年代に建てられたものであるが、当初の建物も残されていて「水の資料館」「水の体験学習館」として再利用されている。

入口の門は、アーチ式の凱旋門のような形をしている。門に連なってレンガ造りの長い塀が敷地を囲んでいる。どちらも開設当時のものであろう。現在の建物の裏側に、古い「ポンプ室」と「エンジン室」が保存・活用されている。鉄骨造りおよび鉄筋コンクリート造りの平屋建てである。
入口や窓はアーチを基調とし、明かり取りは丸窓となっている。外壁全体は長良川の川原石で埋めつくされ、四隅のみ白い花崗岩を積み上げてアクセントとしている。
敷地の片隅に、古い発電機が展示してある。これは、揖斐川支流の「小宮神発電所」で明治41年から昭和57年まで使われていたアメリカ製の機械である。


飛騨川・川辺ダムと山川橋

飛騨川・飛水峡の少し下流に「飛水湖」がある。堰止めているのは「川辺ダム」、中部電力の運営する発電用のダムである。重力式コンクリート造りで、高さ27m、長さ178m、ダム湖面積120haである。昭和11年(1936)に完成した。すぐ下に出力32000kwの「川辺発電所」がある。
飛水湖は豊かな自然と景観に恵まれ、また、年間ほとんど風の影響がないので、全国屈指のボート競技場となっている。平成24年(2012)に開催された「ぎふ清流国体」でもボート競技会場となった。ダムのすぐ上流に「艇庫」と船着き場があった。


飛水湖の中ほどに、「山川橋」が架かっている。延長190m、幅員4.5m、昭和12年(1937)に開通した。橋の型式は「ゲルバー式RC橋」、現存する「RCラーメン橋」としては最も大型であるという。今年、土木学会選奨の土木遺産に指定された。
橋の上流の湖中に、鳥居の様なコンクリート構造物が見える。これは、初代・木造吊り橋の遺構である。橋が架かる以前は「椿渡し」という渡し船があったという。吊り橋は大正13年(1923)に開通したが、ダム湖により水没することから廃止された。


鵜沼宿の町屋館と脇本陣
中山道「鵜沼宿」のほぼ中央に、旅籠「武藤家」がある。現在は各務原市が寄贈を受け、「町屋館」として公開している。江戸時代からの建物は明治24年の濃尾地震で倒壊し、明治後期に再建された。昔の旅籠の特色を体感できる歴史的資料のひとつとして保存されている。
玄関を入ると土間があり、そのまま突き抜けて台所となり中庭に通ずる。厚板の上がり框があって、居間には炉火鉢と箪笥を兼ねた階段がある。その奥に座敷・仏壇・床の間が並んでいる。離れと附属屋に囲まれて中庭がある。延べ段や飛び石を歩く回遊式になっている。

隣に建つ「脇本陣」は、近年復元された新しい建物である。復元に当たっては「鵜沼宿家並絵図」や太田宿の脇本陣「林家」を参考にした(2017・01・23「太田宿の脇本陣」参照)。脇本陣とは、大名の宿泊が重なった場合に格下の大名が利用した宿である。
建物の両端に、「うだつ」が上がっている。元来、防火壁として作られたものだが、格式を示す手段ともなった。台所の土間は広く、かまどなどが並んでいる。大名の居所「上段の間」に、「上湯殿」と「上雪隠」が渡り廊下で繋がっている。藩主が用を足すときには、侍が警護を固めたという。神社の斜面を利用した庭園は、昔に築かれたそのままである。


玄関を入ると土間があり、そのまま突き抜けて台所となり中庭に通ずる。厚板の上がり框があって、居間には炉火鉢と箪笥を兼ねた階段がある。その奥に座敷・仏壇・床の間が並んでいる。離れと附属屋に囲まれて中庭がある。延べ段や飛び石を歩く回遊式になっている。

隣に建つ「脇本陣」は、近年復元された新しい建物である。復元に当たっては「鵜沼宿家並絵図」や太田宿の脇本陣「林家」を参考にした(2017・01・23「太田宿の脇本陣」参照)。脇本陣とは、大名の宿泊が重なった場合に格下の大名が利用した宿である。
建物の両端に、「うだつ」が上がっている。元来、防火壁として作られたものだが、格式を示す手段ともなった。台所の土間は広く、かまどなどが並んでいる。大名の居所「上段の間」に、「上湯殿」と「上雪隠」が渡り廊下で繋がっている。藩主が用を足すときには、侍が警護を固めたという。神社の斜面を利用した庭園は、昔に築かれたそのままである。

