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刈谷ハイウェーオアシス
伊勢湾岸自動車道「刈谷ハイウェーオアシス」は、岩ヶ池公園と一体となって魅力的な集客施設となっている。東名高速・外環状・名古屋環状など高速道路や1号線・23号線といった国道などが集中する地であり、県道からも入場できるとあって、集客数は日本一と言われている。
岩ヶ池公園は、面積39haの都市計画公園である。溜池でもある岩ヶ池を中心に、自然の雑木林が広がっている。大型の複合遊具を備えた遊園地には、メリーゴーランドやゴーカートがあり、ミニ汽車「かも・かもポッポー」も走っている。全体の開園は平成30年と新しい。

ハイウェーオアシスはもともと、高速道路を走る運転手たちの休憩場所であり、駐車場やトイレ、レストランやショップを備えたものである。しかし、この刈谷ハイウェーオアシスはその概念を越えている。まず、遠くから大きな観覧車が目に入ってくる。
最近、各地のハイウェーオアシスそのものを目的にドライブを楽しむという「レジャー」が流行っているという。刈谷には、地元の名産「えびせんの里」や三河湾で獲れた魚介類を売る店があり、県道側からも人が入る。朝早くから「天然温泉」目当てに、駐車場に並ぶ人もいるくらいである。

岩ヶ池公園は、面積39haの都市計画公園である。溜池でもある岩ヶ池を中心に、自然の雑木林が広がっている。大型の複合遊具を備えた遊園地には、メリーゴーランドやゴーカートがあり、ミニ汽車「かも・かもポッポー」も走っている。全体の開園は平成30年と新しい。

ハイウェーオアシスはもともと、高速道路を走る運転手たちの休憩場所であり、駐車場やトイレ、レストランやショップを備えたものである。しかし、この刈谷ハイウェーオアシスはその概念を越えている。まず、遠くから大きな観覧車が目に入ってくる。
最近、各地のハイウェーオアシスそのものを目的にドライブを楽しむという「レジャー」が流行っているという。刈谷には、地元の名産「えびせんの里」や三河湾で獲れた魚介類を売る店があり、県道側からも人が入る。朝早くから「天然温泉」目当てに、駐車場に並ぶ人もいるくらいである。

刈谷の岩ヶ池オアシス橋
主要地方道・県道56号は「名古屋―岡崎線」とも呼ばれる。その中間地点の刈谷で、伊勢湾岸道路「ハイウェーオアシス」に接する。ここでは現在、ETC専用のスマートインターチェンジの整備が行われている。高速道路への乗り降りができるようになるので、さらに交通が活発になろう。
県道が「岩ヶ池」を渡る位置に「オアシス橋」が架かっている。長さ84m・幅13m、型式は「5連アーチカルバート構造」である。主要地方道ではこの型式は前例がないので、構造の安全性や耐震性について専門家による検討委員会が設置され、慎重に設計が進められた。

また、この位置は岩ヶ池公園区域にあるので、自然景観との調和を重視する必要もあった。今回の取材は冬だったので、水に映る姿は見られなかったが、アーチ橋は“メガネ橋”のように見えるのであろう。壁面も茶系統の落ち着いた色合いのタイルで、風景と馴染んでいる。
施工はプレキャストのアーチ部材を連結した後、中詰め材として「気泡モルタル」を充填した。発砲スチロールとコンクリートの中間的性状をもち、土の半分ほどの重さで軟弱地盤の盛土などに適している。路面は耐久性も考え、RC路盤の上にアスファルトを被せたコンポジット舗装になっている。歩道のステンレス製の手すりや、半円形に張り出したバルコニーもデザイン性を強調している。

県道が「岩ヶ池」を渡る位置に「オアシス橋」が架かっている。長さ84m・幅13m、型式は「5連アーチカルバート構造」である。主要地方道ではこの型式は前例がないので、構造の安全性や耐震性について専門家による検討委員会が設置され、慎重に設計が進められた。

また、この位置は岩ヶ池公園区域にあるので、自然景観との調和を重視する必要もあった。今回の取材は冬だったので、水に映る姿は見られなかったが、アーチ橋は“メガネ橋”のように見えるのであろう。壁面も茶系統の落ち着いた色合いのタイルで、風景と馴染んでいる。
施工はプレキャストのアーチ部材を連結した後、中詰め材として「気泡モルタル」を充填した。発砲スチロールとコンクリートの中間的性状をもち、土の半分ほどの重さで軟弱地盤の盛土などに適している。路面は耐久性も考え、RC路盤の上にアスファルトを被せたコンポジット舗装になっている。歩道のステンレス製の手すりや、半円形に張り出したバルコニーもデザイン性を強調している。

賤母発電所と對鶴橋
「落合ダム」のさらに4kmほど上流に「賤母(しずも)発電所」がある。最大出力は1万6300kw、型式は「ダム水路式発電所」であり、取水は2kmほど上流の山口ダム(昭和32年完成)である。このダムは、高さ約39m・長さ約180mで、賤母発電所近くにある「山口発電所」にも水を送っている。
賤母発電所は大正8年(1919)に完成した。当初は、山口ダムよりさらに上流に取水堰(高さ約7m・長さ約105m)を設け、約5000mもの水路で導水していた。導水路を流れた水は、発電所上部の水槽に蓄えられ、そこから4本の鉄管で水を落として4基の水車発電機を回すのである。

発電所建設計画が進められた大正5年ごろには、周辺町村に大きな騒動が発生したという。水利権・漁業権・景観の問題それに木材筏流しの問題などである。電力王と呼ばれた福沢桃介は、そのような難題を解決する力があったのであろう。
對鶴橋は、発電所建設資材を運搬するため大正8年に架橋された。長さ約111m・幅員2.5m、トラス補強をされた木製吊り橋である。発電所の下流辺りを探してみたが見当たらない(写真の黄色点線の位置・JR中央線鉄橋の手前)。帰宅後、ネットで調べると数年前に解体撤去されたとある。姿形は前回掲載した「村瀬橋」や「桃介橋」(2013・10・20参照)に似ていたという。


賤母発電所は大正8年(1919)に完成した。当初は、山口ダムよりさらに上流に取水堰(高さ約7m・長さ約105m)を設け、約5000mもの水路で導水していた。導水路を流れた水は、発電所上部の水槽に蓄えられ、そこから4本の鉄管で水を落として4基の水車発電機を回すのである。

発電所建設計画が進められた大正5年ごろには、周辺町村に大きな騒動が発生したという。水利権・漁業権・景観の問題それに木材筏流しの問題などである。電力王と呼ばれた福沢桃介は、そのような難題を解決する力があったのであろう。
對鶴橋は、発電所建設資材を運搬するため大正8年に架橋された。長さ約111m・幅員2.5m、トラス補強をされた木製吊り橋である。発電所の下流辺りを探してみたが見当たらない(写真の黄色点線の位置・JR中央線鉄橋の手前)。帰宅後、ネットで調べると数年前に解体撤去されたとある。姿形は前回掲載した「村瀬橋」や「桃介橋」(2013・10・20参照)に似ていたという。


落合ダムと村瀬橋
大井ダムの6kmほど上流に落合ダムがある。ダムの型式は重力式コンクリート、高さ33.3m、長さは215mである。大正15年(1926)に完成した。ダムの上流側で大きなクレーンが稼働していた。ダム湖に溜まる土砂を浚渫しているのだが、砂や砂利は建設資材に活用しているのだろう。
関西電力の発電専用のダムで、落合発電所と新落合発電所に送水している。落合発電所はダムと同時に竣工、出力は1万4700kwである。昭和55年(1980)になって、発電に使用されないまま放流される水を有効利用すべく新落合ダムが新設された。出力は2万1000kwである。

落合ダムのすぐの上流に、湯舟沢川という支流が合流している。ここに、ダムや発電所建設に必要とされた「村瀬橋」が架かっている。長さ69m・幅2.5m、木製トラス補強の吊り橋である。当時は桃介橋同様に、トロッコが走っていたのであろう。
ワイヤーを張る主塔は鉄筋コンクリート製、くぐる穴がアーチ状になっている。このデザインは、上流の對鶴橋や桃介橋に共通している。建設から100年ほど経ているが、補修などが行われて健在である。現在は車両通行禁止で、人だけの利用が許されている。


関西電力の発電専用のダムで、落合発電所と新落合発電所に送水している。落合発電所はダムと同時に竣工、出力は1万4700kwである。昭和55年(1980)になって、発電に使用されないまま放流される水を有効利用すべく新落合ダムが新設された。出力は2万1000kwである。

落合ダムのすぐの上流に、湯舟沢川という支流が合流している。ここに、ダムや発電所建設に必要とされた「村瀬橋」が架かっている。長さ69m・幅2.5m、木製トラス補強の吊り橋である。当時は桃介橋同様に、トロッコが走っていたのであろう。
ワイヤーを張る主塔は鉄筋コンクリート製、くぐる穴がアーチ状になっている。このデザインは、上流の對鶴橋や桃介橋に共通している。建設から100年ほど経ているが、補修などが行われて健在である。現在は車両通行禁止で、人だけの利用が許されている。


大井ダムと東雲橋
最初に大井ダム、大井発電所と東雲橋(しののめばし)を見た。発電所の対岸から見る景色は、自然(山・川・岩)と人工物(ダム・発電所・橋)とが相俟って壮大な物語をつくっている。あまりにスケールが大きいので、3枚の連続写真で見ていただきたい。
大井ダムの型式は重力式コンクリ―ト、高さ約53m・長さ278m・体積15万㎥である。貯水量は約3000万㎥、ダム湖の面積は141haと巨大である。完成は大正13年(1924)、当時高さ50mを越えるダムは初めてであり、発電用ダムとしても日本初であった。
ダム直下にある大井発電所の最大出力(建設当時)は4万2900kwで、福沢桃介が手掛けたものとしては最大である。桃介のパートナーであるマダム貞奴(日本の女優第1号)が現地でも協力したという。この話はNHK大河ドラマ「春の波濤」(1985年・主演は松阪慶子)でも紹介された。

東雲橋が最初に架けられたのは明治42年のことである。長さ77m・幅2.7mの木製吊り橋であった。読書発電所の「桃介橋」(2013・10・20参照)も同じ幅員なので、発電所建設時には資材運搬用のトロッコのレールがあったかも知れない。
現在の東雲橋は昭和6年(1931)に開通した二代目である。橋長132m・幅員3.9m、4つの橋からなっている。南から(写真は左から)①コンクリート桁橋 ②ガーター橋 ③トラス橋 ④ガーター橋である。東雲橋からさらに100m下流の高い位置に、東雲大橋が架かっている。

大井ダムの型式は重力式コンクリ―ト、高さ約53m・長さ278m・体積15万㎥である。貯水量は約3000万㎥、ダム湖の面積は141haと巨大である。完成は大正13年(1924)、当時高さ50mを越えるダムは初めてであり、発電用ダムとしても日本初であった。
ダム直下にある大井発電所の最大出力(建設当時)は4万2900kwで、福沢桃介が手掛けたものとしては最大である。桃介のパートナーであるマダム貞奴(日本の女優第1号)が現地でも協力したという。この話はNHK大河ドラマ「春の波濤」(1985年・主演は松阪慶子)でも紹介された。

東雲橋が最初に架けられたのは明治42年のことである。長さ77m・幅2.7mの木製吊り橋であった。読書発電所の「桃介橋」(2013・10・20参照)も同じ幅員なので、発電所建設時には資材運搬用のトロッコのレールがあったかも知れない。
現在の東雲橋は昭和6年(1931)に開通した二代目である。橋長132m・幅員3.9m、4つの橋からなっている。南から(写真は左から)①コンクリート桁橋 ②ガーター橋 ③トラス橋 ④ガーター橋である。東雲橋からさらに100m下流の高い位置に、東雲大橋が架かっている。

目次の追加(季節通信)
目次の追加
恵那・中津川の3つのダムと橋
今度は、木曽川中流域の3つのダムを取材した。以前、南木曽駅近くの「桃介橋」と「読書(よみかき)発電所」をご報告したことがある。(2013・10・20) これらは全て、大正年間に電力王と称された福沢桃介が活躍した木曽川電源開発の遺産である。
恵那駅の北には、大井ダムの堰き止めによって生じた「恵那峡」がある。ダム建設により誕生した人工的な景勝地である。遊園地「恵那峡ワンダーランド」、ホテルやお土産屋も並んでいる。地質的にも貴重な場所であり、奇岩が多くて遊覧船で見て回ることもできる。(写真は「傘岩」と「千畳敷岩」である)

ダムの近くには、ダム建設時に資材運搬用として架けられた橋が併設されている。「大井ダム」の下には「東雲橋」がある。今回は、ダムと橋をセットで見て回ることとなる。恵那峡を出発して、中津川駅近くの「落合ダム」と「村瀬橋」、田立駅近くの「賤母ダム」と「対鶴橋(消滅)」などを取材した。
これらのダムとそれに伴う発電所は、関西電力の所属である。中部電力では?と不思議に思うが、これは昭和26年の「電気事業再編成」で、“帰属先は消費地により決定する”という原則によって定められたものである。福沢桃介が起こした「大同電力」は、関西電力に引き継がれている。

恵那駅の北には、大井ダムの堰き止めによって生じた「恵那峡」がある。ダム建設により誕生した人工的な景勝地である。遊園地「恵那峡ワンダーランド」、ホテルやお土産屋も並んでいる。地質的にも貴重な場所であり、奇岩が多くて遊覧船で見て回ることもできる。(写真は「傘岩」と「千畳敷岩」である)

ダムの近くには、ダム建設時に資材運搬用として架けられた橋が併設されている。「大井ダム」の下には「東雲橋」がある。今回は、ダムと橋をセットで見て回ることとなる。恵那峡を出発して、中津川駅近くの「落合ダム」と「村瀬橋」、田立駅近くの「賤母ダム」と「対鶴橋(消滅)」などを取材した。
これらのダムとそれに伴う発電所は、関西電力の所属である。中部電力では?と不思議に思うが、これは昭和26年の「電気事業再編成」で、“帰属先は消費地により決定する”という原則によって定められたものである。福沢桃介が起こした「大同電力」は、関西電力に引き継がれている。

岡崎城下・5つの橋 その5
⑤明代橋(みょうだいばし)
名鉄東岡崎駅から乙川を越えて、井田交差点までの道を「モダン道路」と呼ぶ。モダンとは、現代的・近代的という意味で、大正時代や昭和初期によく使われた言葉である。県道477号のこの道路は、昭和初期に開通した。当時としては斬新だったのであろう。
現在の明代橋は昭和12年に完成した。全長114m、幅員約16m、型式は5径間鉄筋コンクリートゲルバーT桁橋である。モダン道路の橋ということで意匠にも拘り、親柱には「すずらん灯」が飾られていた。(今はない)橋のふもとの松の大木が印象的である。

歴史的には、大正5年に「明大寺橋」という木橋が架けられたのが最初で、4年後の大正9年に架け変え工事が行われた。木造ハウ式構橋(トラス)の板橋で、橋長は114mと現在と同じだが幅員は3.6mと狭いものであった。

名鉄東岡崎駅から乙川を越えて、井田交差点までの道を「モダン道路」と呼ぶ。モダンとは、現代的・近代的という意味で、大正時代や昭和初期によく使われた言葉である。県道477号のこの道路は、昭和初期に開通した。当時としては斬新だったのであろう。
現在の明代橋は昭和12年に完成した。全長114m、幅員約16m、型式は5径間鉄筋コンクリートゲルバーT桁橋である。モダン道路の橋ということで意匠にも拘り、親柱には「すずらん灯」が飾られていた。(今はない)橋のふもとの松の大木が印象的である。

歴史的には、大正5年に「明大寺橋」という木橋が架けられたのが最初で、4年後の大正9年に架け変え工事が行われた。木造ハウ式構橋(トラス)の板橋で、橋長は114mと現在と同じだが幅員は3.6mと狭いものであった。
