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保曽井神社の太鼓橋(曽井のそり橋)
四日市は、海岸の港と標高1212mの御在所岳の中間にある。その間を国道477号が結んでいる。東海道は追分の地で伊勢街道と枝分かれするが、その手前、三滝川を渡ったところで右に曲がると477号(湯の山街道)である。
緩い坂道を登っていくと右に「曽井町」があり、東名阪自動車道の四日市インターに至る。インターを通過してさらに西に向かうと、個性的な展示で名高い「パラミタミュージアム」がある。池田満寿夫の陶彫などを収集している。7年ほど前に世界の植物画(ボタニカルアート)を観に行ったことがある。

1300年の歴史をもち、豊かな源泉に恵まれた湯の山温泉に「御在所岳ロープウェー」の登り口がある。全長2160m、標高差780mを12分ほどで登りきる。白く塗られた鉄塔は高さ60m、日本一高い支柱である。晴れた日には、近鉄の車中から遠望することができる。
曽井町に「保曽井神社」がある。曽井には、伊勢神宮にお米を納める「御厨」があった。「御厨(みくり・みくりや)」は、「神の台所」を意味する。保曽井神社は御厨の成立と深い関係にあるという。長い参道の入り口に石造りの太鼓橋がある。長さ2.1m、幅1.5mの小さなものだが頑丈なつくりである。欄干の柱に6個の擬宝珠をもつ。天明6年(1786)に架けられたもので、神社にとっては貴重な宝物である。

緩い坂道を登っていくと右に「曽井町」があり、東名阪自動車道の四日市インターに至る。インターを通過してさらに西に向かうと、個性的な展示で名高い「パラミタミュージアム」がある。池田満寿夫の陶彫などを収集している。7年ほど前に世界の植物画(ボタニカルアート)を観に行ったことがある。

1300年の歴史をもち、豊かな源泉に恵まれた湯の山温泉に「御在所岳ロープウェー」の登り口がある。全長2160m、標高差780mを12分ほどで登りきる。白く塗られた鉄塔は高さ60m、日本一高い支柱である。晴れた日には、近鉄の車中から遠望することができる。
曽井町に「保曽井神社」がある。曽井には、伊勢神宮にお米を納める「御厨」があった。「御厨(みくり・みくりや)」は、「神の台所」を意味する。保曽井神社は御厨の成立と深い関係にあるという。長い参道の入り口に石造りの太鼓橋がある。長さ2.1m、幅1.5mの小さなものだが頑丈なつくりである。欄干の柱に6個の擬宝珠をもつ。天明6年(1786)に架けられたもので、神社にとっては貴重な宝物である。

四日市の「思案橋」と常滑の「腰掛石」
ブログを10年も書いていると(760回発信)、面白いことに出会う。四日市旧港西の「思案橋」という謂われのある橋を取材したところ、徳川家康がここで思案に暮れたことからの命名とのこと。それを聞いて、常滑の「正住院」というお寺に、家康の「腰掛石」があったことを思い出した。
天正10年(1582)6月、家康は安土で織田信長のもてなしを受けた後、堺でくつろいだ遊覧の旅をしていた。そこに、京都・本能寺で信長が明智光秀に殺されたとの知らせが入ったのである。身の危険を感じた家康は、伊賀の山越えをして三河・岡崎に逃げ帰る道を選んだ。

何とか山賊の攻撃などを凌いで、伊勢の国・四日市に到着したのがこの地である。昔は、「築地」と呼ばれる港の入口の州浜であったという。そこに架かる土橋の上で、陸路を行った方が良いのか、海路を舟に乗った方が助かるのか思案したのだという。
現在は、広くなった道路の両側にモニュメントとしての「思案橋」が造られている。橋のたもとにはヤナギの古木も植えてある。
何とか無事に伊勢湾を渡った家康は、尾張の国の常滑に上陸した。その港近くのお寺・正住院で、ホッとして座った石が「家康公腰掛の石」(2018・5・31参照)として伝わっているのである。


天正10年(1582)6月、家康は安土で織田信長のもてなしを受けた後、堺でくつろいだ遊覧の旅をしていた。そこに、京都・本能寺で信長が明智光秀に殺されたとの知らせが入ったのである。身の危険を感じた家康は、伊賀の山越えをして三河・岡崎に逃げ帰る道を選んだ。

何とか山賊の攻撃などを凌いで、伊勢の国・四日市に到着したのがこの地である。昔は、「築地」と呼ばれる港の入口の州浜であったという。そこに架かる土橋の上で、陸路を行った方が良いのか、海路を舟に乗った方が助かるのか思案したのだという。
現在は、広くなった道路の両側にモニュメントとしての「思案橋」が造られている。橋のたもとにはヤナギの古木も植えてある。
何とか無事に伊勢湾を渡った家康は、尾張の国の常滑に上陸した。その港近くのお寺・正住院で、ホッとして座った石が「家康公腰掛の石」(2018・5・31参照)として伝わっているのである。


顕正寺山門とつんつく橋
四日市あすなろう鉄道・内部線(2014・9・17参照)・日永駅の西に、面白い2つの施設がある。ひとつは顕正寺山門であり、もう一つは天白川に架かる「つんつく橋」である。この辺りは、四日市港と鈴鹿山系御在所岳・鎌ヶ岳の中間地点に位置する平野である。
顕正寺の山門は、寺院には似つかわしくない形をしている。「高麗門」という形式で、通常は城郭の門として設置される。2本の本柱の上に切妻屋根が載り、控え柱の上にも切妻の小屋根を載せている。元は鈴鹿の神戸城にあった門を、明治9年(1876)に移築したものだという。

「つんつく橋」は何の変哲もないコンクリート橋である。架かる天白川も小さな川で、橋長も長くなく幅員も左右一車線と歩道で構成されている。しかし、高欄に面白いレリーフが添えられている。「日永つんつく踊り」を描いた作品である。
この踊りは、日永地区に古くから伝わる郷土色豊かな踊りである。その起源については、滝川一益の命により、母親の隠居所あるいは天白川の堤防を築くための「地固め」のときに歌ったのが始まりとの伝承がある。今でも、6月第一土曜日に両聖寺境内で、保存会を中心に開催されている。(踊りの写真は四日市観光協会のホームページから転載した)

顕正寺の山門は、寺院には似つかわしくない形をしている。「高麗門」という形式で、通常は城郭の門として設置される。2本の本柱の上に切妻屋根が載り、控え柱の上にも切妻の小屋根を載せている。元は鈴鹿の神戸城にあった門を、明治9年(1876)に移築したものだという。

「つんつく橋」は何の変哲もないコンクリート橋である。架かる天白川も小さな川で、橋長も長くなく幅員も左右一車線と歩道で構成されている。しかし、高欄に面白いレリーフが添えられている。「日永つんつく踊り」を描いた作品である。
この踊りは、日永地区に古くから伝わる郷土色豊かな踊りである。その起源については、滝川一益の命により、母親の隠居所あるいは天白川の堤防を築くための「地固め」のときに歌ったのが始まりとの伝承がある。今でも、6月第一土曜日に両聖寺境内で、保存会を中心に開催されている。(踊りの写真は四日市観光協会のホームページから転載した)

臨港橋と末広橋梁
港には、船が着岸したり荷物を運搬したりする突堤や運阿が張り巡らされている。陸側の末広町と出島の千歳町の間に千歳運河が流れている。この運河を跨ぐ道路と鉄道に、2つの珍しい「跳ね橋」が架かっている。(前回のマップ参照)
鉄道は四日市駅から枝分かれした臨港線で、出島に渡ってから二手に分かれて島の先端まで運行する。跳ね橋は「末広橋梁」という(下の写真=2013・07・08参照)。この日は平日だったので、橋は跳ね上がったままで列車が運行するときだけに下ろされる。(休日はその逆)

道路に架かる橋は「臨港橋」という。こちらは常時は車が通れるように閉っていて、船舶が通る時だけ70度跳ね上がる。橋の中央付近にある機械室に管理人がいて、船が近づくと操作するシステムになっている。その人の話によると、通行回数は1日に数件だという。
現在の橋は3代目で、平成3年(1991)に完成した。初代は昭和6年(1931)だという。親柱は、地元の焼き物「万古焼」のタイルが貼ってある。可動部の手すりに斜めの切れ目がある。いろいろな方角から時間をかけて写真を撮っていたが、残念ながら跳ね上がるシーンを見ることはできなかった。

鉄道は四日市駅から枝分かれした臨港線で、出島に渡ってから二手に分かれて島の先端まで運行する。跳ね橋は「末広橋梁」という(下の写真=2013・07・08参照)。この日は平日だったので、橋は跳ね上がったままで列車が運行するときだけに下ろされる。(休日はその逆)

道路に架かる橋は「臨港橋」という。こちらは常時は車が通れるように閉っていて、船舶が通る時だけ70度跳ね上がる。橋の中央付近にある機械室に管理人がいて、船が近づくと操作するシステムになっている。その人の話によると、通行回数は1日に数件だという。
現在の橋は3代目で、平成3年(1991)に完成した。初代は昭和6年(1931)だという。親柱は、地元の焼き物「万古焼」のタイルが貼ってある。可動部の手すりに斜めの切れ目がある。いろいろな方角から時間をかけて写真を撮っていたが、残念ながら跳ね上がるシーンを見ることはできなかった。

四日市旧港の相生橋と水門
明治時代に開港した四日市港(旧港)は面積的には小さく、広大に展開している現在の港湾の中では極一部の区域でしかない。しかし、現在も稼働しているばかりでなく、歴史的に重要な「旧港」として大切に保存されている。もちろん新しい施設も加わって、新旧相俟って機能を維持している。
旧港の奥まった運河は、現在はプレジャーボートの繋留場となっている。諏訪新道が運河を跨ぐところに「相生橋」が架かっている。平成7年(1995)に完成した。3連のアーチ橋で、水面に映る姿も美しい。親柱や欄干、照明塔も凝ったデザインである。

運河の出入り口には水門が設置してある。船舶が通行できる高さまで、ゲートが開くようになっている。この地区の海抜は、2.4mとの表記がある。2mほどのコンクリート堤防が巡らせてあるが、いざ津波が押寄せれば乗り越えてしまうかもしれない。出入り口には、防潮扉が備えられている。
明治時代に造られた「潮吹き防波堤」(2013・07・02参照)は、海側が埋め立てられてオイルタンクが立地しており、そのユニークな機能は失われているが、現物が保存されていて四日市港の歴史の “証人” となっている。旧港の小さな入り江も現役で、何艘かの漁船が停泊していた。

旧港の奥まった運河は、現在はプレジャーボートの繋留場となっている。諏訪新道が運河を跨ぐところに「相生橋」が架かっている。平成7年(1995)に完成した。3連のアーチ橋で、水面に映る姿も美しい。親柱や欄干、照明塔も凝ったデザインである。

運河の出入り口には水門が設置してある。船舶が通行できる高さまで、ゲートが開くようになっている。この地区の海抜は、2.4mとの表記がある。2mほどのコンクリート堤防が巡らせてあるが、いざ津波が押寄せれば乗り越えてしまうかもしれない。出入り口には、防潮扉が備えられている。
明治時代に造られた「潮吹き防波堤」(2013・07・02参照)は、海側が埋め立てられてオイルタンクが立地しており、そのユニークな機能は失われているが、現物が保存されていて四日市港の歴史の “証人” となっている。旧港の小さな入り江も現役で、何艘かの漁船が停泊していた。

四日市港ポートビルと隣接する公園
いなばポートラインは、「四日市港ポートビル」の手前で平面道路に着地する。このビルは高さ100mの超高層ビルで、四日市港管理組合や港湾関係企業などが入居している。12階にはカフェや応接室があり、喫茶や食事ができる。
14階の展望室「うみてらす14」に上ると、港湾の地形やコンビナートの工場群などが一望できる。天気の良い日には、西には鈴鹿山脈や養老山地を、東には名古屋のビル群を遠望することができる。夜間には、照明の点いたビルや工場が美しいという。

駐車場からポートビルへのアプローチは、背の高いココヤシの並木道になっている。ビスタの先の玄関前に、シンボリックな彫刻が設置してある。作品名は「帆」、作者は津高校出身の福井美奈である。1999年に、開港100周年記念として制作された。
眼下に2つの公園のみどりが見える。霞港公園(かすみみなとこうえん)とシドニー公園である。野外ステージと観客席ともなる芝生広場、ローラー滑り台などの大型遊具がある。ビルと公園を結ぶ直線の橋は「ポートブリッジ」、公園と公園との間の曲線の橋は「シスパブリッジ」と呼ぶ。

14階の展望室「うみてらす14」に上ると、港湾の地形やコンビナートの工場群などが一望できる。天気の良い日には、西には鈴鹿山脈や養老山地を、東には名古屋のビル群を遠望することができる。夜間には、照明の点いたビルや工場が美しいという。

駐車場からポートビルへのアプローチは、背の高いココヤシの並木道になっている。ビスタの先の玄関前に、シンボリックな彫刻が設置してある。作品名は「帆」、作者は津高校出身の福井美奈である。1999年に、開港100周年記念として制作された。
眼下に2つの公園のみどりが見える。霞港公園(かすみみなとこうえん)とシドニー公園である。野外ステージと観客席ともなる芝生広場、ローラー滑り台などの大型遊具がある。ビルと公園を結ぶ直線の橋は「ポートブリッジ」、公園と公園との間の曲線の橋は「シスパブリッジ」と呼ぶ。

四日市・いなばポートライン
日本の「港湾取扱貨物量ランキング(2019)」によると、1位は名古屋港で総貨物量は1億9500万トンである。2位千葉、3位横浜と続き6位神戸、7位東京、8位大坂である。四日市港は14位で、総貨物量は6000万トンとなっている。
四日市港は、幕末から明治初期にかけては伊勢湾内において最大の商業港であった。当初の貿易は、食料品・肥料の輸入が中心であったが、次第に綿花や繊維原料となり、戦後は羊毛や石油が主となった。石油化学コンビナートの立地により、現在は典型的な工業港へと発展している。

四日市港の、近代港湾への基礎を築いたのは稲葉三右衛門である。コンクリートもない時代の港湾造成は、想像以上の難工事であったという。稲葉は、私財を投げ打って工事を進め、幾多の困難を乗り越えて完成に漕ぎ着けた。明治32年に開港場として指定された。(2013年6月・7月の四日市旧港参照)
4年前(2018年)に、「臨港道路霞4号幹線」が開通した。伊勢湾岸道路「みえ川越インターチェンジ」から「四日市港ポートビル」に至る約4kmの自動車道で、海岸沿いや水面の上を走る高架道路である。愛称は「四日市・いなばポートライン」という。開港の功労者・稲葉三右衛門を記念した名称である。
四日市港は、幕末から明治初期にかけては伊勢湾内において最大の商業港であった。当初の貿易は、食料品・肥料の輸入が中心であったが、次第に綿花や繊維原料となり、戦後は羊毛や石油が主となった。石油化学コンビナートの立地により、現在は典型的な工業港へと発展している。

四日市港の、近代港湾への基礎を築いたのは稲葉三右衛門である。コンクリートもない時代の港湾造成は、想像以上の難工事であったという。稲葉は、私財を投げ打って工事を進め、幾多の困難を乗り越えて完成に漕ぎ着けた。明治32年に開港場として指定された。(2013年6月・7月の四日市旧港参照)
4年前(2018年)に、「臨港道路霞4号幹線」が開通した。伊勢湾岸道路「みえ川越インターチェンジ」から「四日市港ポートビル」に至る約4kmの自動車道で、海岸沿いや水面の上を走る高架道路である。愛称は「四日市・いなばポートライン」という。開港の功労者・稲葉三右衛門を記念した名称である。
伊能忠敬測量之跡
伊能忠敬の測量図を見に行ったことがある。2004年10月に、名古屋ドームで開催された「大日本沿海輿地図」の展覧会である。明治に写された伊能大図で、アメリカに渡っていたものが発見されて里帰りしたのだという。
名古屋ドームの人工芝の上に日本列島の形に並べられた。全部で214枚、1枚がタタミ1畳分もあろうかとの大きさ(少しオーバーか?)なので、ライトの選手の守備範囲いっぱいに広げられていた。海岸沿いに細かく描かれた地図を、列島一周歩いて観る。あまり大きいので全体像を見るためには、外野席に登って見なければならない。

伊能忠敬は、江戸中期の地理・暦の学者である。我が国最初の実測地図を作製した。生まれは上総、今の千葉県佐原である。江戸に出て西洋暦法を学び、幕府の命により蝦夷も含め全国を測量した。踏査は55歳から始め、73歳で亡くなるまで続けられた。その間に、4000万歩も歩いたという。
尾張には、享保3年(1803)に訪れている。飛島村の筏川近くに、記念する石碑が立っている。「伊能忠敬測量之跡」である。石の銘板には、ここ大宝新田から御嶽山・恵那山・本宮山の方向に矢印が刻まれている。
今、忠敬の生涯を描いた映画が上映されていると聞いた。主演は中井貴一と北川景子、「大河への道」というタイトルである。私も測量会社の社員であるので、忠敬の苦労話を見ておきたいと思う。
◆◆明日6月3日は「測量の日」です。(2013年6月13日のブログを参照してください)◆◆

名古屋ドームの人工芝の上に日本列島の形に並べられた。全部で214枚、1枚がタタミ1畳分もあろうかとの大きさ(少しオーバーか?)なので、ライトの選手の守備範囲いっぱいに広げられていた。海岸沿いに細かく描かれた地図を、列島一周歩いて観る。あまり大きいので全体像を見るためには、外野席に登って見なければならない。

伊能忠敬は、江戸中期の地理・暦の学者である。我が国最初の実測地図を作製した。生まれは上総、今の千葉県佐原である。江戸に出て西洋暦法を学び、幕府の命により蝦夷も含め全国を測量した。踏査は55歳から始め、73歳で亡くなるまで続けられた。その間に、4000万歩も歩いたという。
尾張には、享保3年(1803)に訪れている。飛島村の筏川近くに、記念する石碑が立っている。「伊能忠敬測量之跡」である。石の銘板には、ここ大宝新田から御嶽山・恵那山・本宮山の方向に矢印が刻まれている。
今、忠敬の生涯を描いた映画が上映されていると聞いた。主演は中井貴一と北川景子、「大河への道」というタイトルである。私も測量会社の社員であるので、忠敬の苦労話を見ておきたいと思う。
◆◆明日6月3日は「測量の日」です。(2013年6月13日のブログを参照してください)◆◆
