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筋違橋と西北隅櫓
「筋違橋」を“すじちがいばし”と読んでいたので、宿場町などで見る「枡形」のような形状と思っていた。雁木(がんぎ=ぎざぎざ)のように直角に曲がっていると。しかし読みは“すじかいばし”、「はすかい」の意味である。そういえば、建物の壁に補強材として入れる「筋交い」と同じ発音である。
ネットで調べると、同じ名の橋が大阪にも東京にも、また鎌倉にもある(あった)ことが分かった。川(堀)に対して斜めに架かる橋を呼ぶ時の、標準語?なのであろう。費用を考えれば川と直角にすれば、最短距離で架橋することができる。はすかいに橋を架けるのには、それなりの事情があったのだろう。

名古屋城の西北端、お濠に沿って北へ向かう道路に架かっている。東北から流れてきた堀川が、斜めに流れているので、橋を「はすかい=筋違い」に架ける必要が生じたのだろう。現在の橋は、昭和8年(1933)に完成した。方杖ラーメン橋という形式、戦前のものは珍しいという。
現在の名古屋城では、水の入ったお濠はあまり見られない。水面の向うに白亜の櫓が見える。「西北隅櫓」(重要文化財)という。「清洲櫓」とも呼ぶ。名古屋城築城の折、清州を町ごと移転(清洲越し)したが、その時に清洲城(2019・5・1参照)の「小天守」を移築したと伝えられている。

ネットで調べると、同じ名の橋が大阪にも東京にも、また鎌倉にもある(あった)ことが分かった。川(堀)に対して斜めに架かる橋を呼ぶ時の、標準語?なのであろう。費用を考えれば川と直角にすれば、最短距離で架橋することができる。はすかいに橋を架けるのには、それなりの事情があったのだろう。

名古屋城の西北端、お濠に沿って北へ向かう道路に架かっている。東北から流れてきた堀川が、斜めに流れているので、橋を「はすかい=筋違い」に架ける必要が生じたのだろう。現在の橋は、昭和8年(1933)に完成した。方杖ラーメン橋という形式、戦前のものは珍しいという。
現在の名古屋城では、水の入ったお濠はあまり見られない。水面の向うに白亜の櫓が見える。「西北隅櫓」(重要文化財)という。「清洲櫓」とも呼ぶ。名古屋城築城の折、清州を町ごと移転(清洲越し)したが、その時に清洲城(2019・5・1参照)の「小天守」を移築したと伝えられている。

養老の源氏橋
今度は、源義朝である。家康は四日市から船で常滑に渡った(2022・6・26)が、義朝もやはり小舟で野間へ逃れた。平治元年(1159)、平治の乱で平清盛に敗れた義朝は、勢力圏である関東に落ち延びるため東へと向かっていた。途中、大垣の青墓という所から舟で知多へ渡ることとした。
養老駅のすぐ東に「源氏橋」という石橋がある(前回の図面参照)。ここから乗船したという記念の橋だが、川は2~3mの細い水路である。南に流れて、揖斐川の支流・津屋川に合流する。義朝の主従5人が「柴舟」という小さな川舟に乗ったというが、果たしてそのまま伊勢湾を渡れたのだろうか。

現在、石橋は車道から少し離れたところに架かっている。橋台は石積みだが、橋脚も高欄も切石造りである。親柱に仮名?で「げんじはし」と記してある。もう一つの柱には、「明治十三年」と刻まれている。高欄の石板に源義朝の家紋「笹竜胆(ささりんどう)」がレリーフとなって描かれている。
野間まで逃げ延びることができたが、頼りにした知人の裏切りにより風呂場で討たれてしまった。野間大坊には義朝のお墓があり、後世の人たちが木刀を奉げている。(2020・6・21参照)
鎌倉時代、江戸時代、それぞれが始まる前段で、歴史が変わるかもしれない大事件があった。

養老駅のすぐ東に「源氏橋」という石橋がある(前回の図面参照)。ここから乗船したという記念の橋だが、川は2~3mの細い水路である。南に流れて、揖斐川の支流・津屋川に合流する。義朝の主従5人が「柴舟」という小さな川舟に乗ったというが、果たしてそのまま伊勢湾を渡れたのだろうか。

現在、石橋は車道から少し離れたところに架かっている。橋台は石積みだが、橋脚も高欄も切石造りである。親柱に仮名?で「げんじはし」と記してある。もう一つの柱には、「明治十三年」と刻まれている。高欄の石板に源義朝の家紋「笹竜胆(ささりんどう)」がレリーフとなって描かれている。
野間まで逃げ延びることができたが、頼りにした知人の裏切りにより風呂場で討たれてしまった。野間大坊には義朝のお墓があり、後世の人たちが木刀を奉げている。(2020・6・21参照)
鎌倉時代、江戸時代、それぞれが始まる前段で、歴史が変わるかもしれない大事件があった。

養老鉄道・養老駅と牧田橋梁保存展示
養老鉄道・養老線は、岐阜県・揖斐駅から養老駅を経由して三重県・桑名駅に至る57.5kmのローカル線である。大正2年(1913)に大垣に近い池野駅~養老駅が開通した。桑名駅まで延伸したのは大正8年になってからである。その年に駅舎の改築が行われ、現在の建物となった。
木造平屋建て日本瓦葺き、正面玄関は入母屋屋根である。全体に和風の建物だが、屋根に尖塔をもつ丸窓がある。当時の風潮「大正ロマン」を表現しているのだろうか。観光客のために線路を大きく迂回させるほど人気があった「養老の滝」、その最寄り駅としてデザインに力が入っている。

長い間近鉄が運営していたが、平成19年(2007)からは養老鉄道株式会社が経営している。自転車も乗せられるサイクルトレインや「薬膳列車」など魅力づくりに取り組んでいる。駅のホームに養老のシンボル「瓢箪」が吊るしてあった。(2015・1・9参照)
鳥江駅の線路脇に古い橋梁の一部が保存展示されている。「牧田橋梁」という。これは、明治21年(1888)に英国パテント・シャフト社で造られたもの(揖斐川橋梁と同じ)で、当初は東海道線で使われていた。大正2年に、養老線に払い下げられたものである。平成9年の牧田川改修に伴い撤去され、、その一部が保存展示されているのである。

木造平屋建て日本瓦葺き、正面玄関は入母屋屋根である。全体に和風の建物だが、屋根に尖塔をもつ丸窓がある。当時の風潮「大正ロマン」を表現しているのだろうか。観光客のために線路を大きく迂回させるほど人気があった「養老の滝」、その最寄り駅としてデザインに力が入っている。

長い間近鉄が運営していたが、平成19年(2007)からは養老鉄道株式会社が経営している。自転車も乗せられるサイクルトレインや「薬膳列車」など魅力づくりに取り組んでいる。駅のホームに養老のシンボル「瓢箪」が吊るしてあった。(2015・1・9参照)
鳥江駅の線路脇に古い橋梁の一部が保存展示されている。「牧田橋梁」という。これは、明治21年(1888)に英国パテント・シャフト社で造られたもの(揖斐川橋梁と同じ)で、当初は東海道線で使われていた。大正2年に、養老線に払い下げられたものである。平成9年の牧田川改修に伴い撤去され、、その一部が保存展示されているのである。

揖斐川橋梁(東海道本線)
残りの2本の橋梁をご紹介しよう。東海道本線で現在使われている「揖斐川橋梁」と、今は道路(歩行者と自転車専用)として使用されている「旧揖斐川橋梁」である。「旧橋梁」については、すでにこのブログに掲載(2014年2月5日)しているが、再度話題に乗せたい。
グリーン色に塗られた「揖斐川橋梁」は、東海道本線としては3代目である。初代(旧橋梁)は明治20年(1887)、二代目は大正2年に供用開始されている。現在の橋は昭和36年からで、2代目のものは昭和60年に撤去された。初代の旧橋梁は平成20年に、国の重要文化財に指定された。

現在の揖斐川橋梁は複線で、延長約305m、下路平行弦ワーレントラスの5連である。上流に並行して走る「旧揖斐川橋梁」や「樽見線の揖斐川橋梁」と比べると、デザイン的には少し簡素に見える。建設時の、戦後間もない昭和30年代を考えると、美観よりも機能性を重視したのだろうか。
旧揖斐川橋梁の上部構造の鉄骨部分は、イギリス人技術者の設計によるものである。製作もイギリスの「パテント・シャフト&アクスルトゥリー社」が行った。鉄骨にプレートが張り付けてある。橋脚の煉瓦構造の写真は8年前に撮ったものである。橋の色を見ると、塗装が新しく塗り替えられている。

グリーン色に塗られた「揖斐川橋梁」は、東海道本線としては3代目である。初代(旧橋梁)は明治20年(1887)、二代目は大正2年に供用開始されている。現在の橋は昭和36年からで、2代目のものは昭和60年に撤去された。初代の旧橋梁は平成20年に、国の重要文化財に指定された。

現在の揖斐川橋梁は複線で、延長約305m、下路平行弦ワーレントラスの5連である。上流に並行して走る「旧揖斐川橋梁」や「樽見線の揖斐川橋梁」と比べると、デザイン的には少し簡素に見える。建設時の、戦後間もない昭和30年代を考えると、美観よりも機能性を重視したのだろうか。
旧揖斐川橋梁の上部構造の鉄骨部分は、イギリス人技術者の設計によるものである。製作もイギリスの「パテント・シャフト&アクスルトゥリー社」が行った。鉄骨にプレートが張り付けてある。橋脚の煉瓦構造の写真は8年前に撮ったものである。橋の色を見ると、塗装が新しく塗り替えられている。

揖斐川橋梁(樽見鉄道)と揖斐大橋
鉄道が揖斐川を跨ぐ橋梁が3本ある。南から順に、①JR東海道本線「揖斐川橋梁」、②「旧揖斐川橋梁」(2014・2・5掲載)、③樽見鉄道・樽見線(2013・12・9参照)「揖斐川橋梁」である。ここでは、樽見鉄道の橋梁をご紹介する。
樽見鉄道の前身「国鉄樽見線」は、昭和10年に着工したが戦争により一時中断、揖斐川橋梁も工事に入ったが完成直前に撤去されてしまった(金属回収?)。再開されて開通したのは戦後、昭和31年になってからである。橋梁は新設でなく、御殿場線の5か所のトラス橋を再利用した。
写真で左端の台形の橋は長さ100フィート(約30m)、大正5年の川崎造船所製である。右の5連のトラス橋は各200フィート、明治33年のAアンドP・ロバーツ製である。昭和59年に3セクの樽見鉄道に移管した。カラフルな1両編成の車両が走っていた。

少し下流の県道31号に、「揖斐大橋」が架かっている。長さ約385m、幅員約15mのワーレントラス橋である。昭和8年に完成したときには鉄道との併用であったが、鉄道計画は事業化されず昭和39年に道路専用橋となった。岐阜と大垣を道路(県道31号)と鉄道で結ぼうとの計画があったのである。

樽見鉄道の前身「国鉄樽見線」は、昭和10年に着工したが戦争により一時中断、揖斐川橋梁も工事に入ったが完成直前に撤去されてしまった(金属回収?)。再開されて開通したのは戦後、昭和31年になってからである。橋梁は新設でなく、御殿場線の5か所のトラス橋を再利用した。
写真で左端の台形の橋は長さ100フィート(約30m)、大正5年の川崎造船所製である。右の5連のトラス橋は各200フィート、明治33年のAアンドP・ロバーツ製である。昭和59年に3セクの樽見鉄道に移管した。カラフルな1両編成の車両が走っていた。

少し下流の県道31号に、「揖斐大橋」が架かっている。長さ約385m、幅員約15mのワーレントラス橋である。昭和8年に完成したときには鉄道との併用であったが、鉄道計画は事業化されず昭和39年に道路専用橋となった。岐阜と大垣を道路(県道31号)と鉄道で結ぼうとの計画があったのである。

赤坂湊跡と美濃赤坂駅
赤坂宿は江戸から数えて56番目の宿場町である。歌川広重の「木曽街道六十九次」では川(杭瀬川?)を渡る土橋の景色として描かれている。本陣・脇本陣と17軒の旅籠が建ち並んでいた。金生山(きんしょうざん)で採掘される石灰と大理石を利用した工業が興り、大いに繁盛していたという。
杭瀬川に繋がる運河があり、中山道と交わる地点に川湊があった。肥料用の石灰や建築資材としての大理石などが、船により運搬されていた。現在も、船着き場と常夜灯が残っている。白壁の洋風建物は、明治8年(1875)に建てられた警察屯所で、今は赤坂港会館として使用されている。

赤坂湊は、往時は500艘もの船が往来していた。しかし、東海道本線の支線「美濃赤坂線」の開通により、また下流に水門が出来たことにより廃絶となってしまった。支線は、大正8年(1919)に開通し、昭和3年には石灰石輸送のための西濃鉄道が乗り入れを開始した。
現在もJR東海(1日18便)・JR貨物(1日3便)として運行している。美濃赤坂駅は、支線開通の年に建設されたままの木造平屋建てである。明治19年築(1886)の武豊線・亀崎駅(2013・4・16参照)ほど古くはないが、ノスタルジックな雰囲気の残る駅舎である。

杭瀬川に繋がる運河があり、中山道と交わる地点に川湊があった。肥料用の石灰や建築資材としての大理石などが、船により運搬されていた。現在も、船着き場と常夜灯が残っている。白壁の洋風建物は、明治8年(1875)に建てられた警察屯所で、今は赤坂港会館として使用されている。

赤坂湊は、往時は500艘もの船が往来していた。しかし、東海道本線の支線「美濃赤坂線」の開通により、また下流に水門が出来たことにより廃絶となってしまった。支線は、大正8年(1919)に開通し、昭和3年には石灰石輸送のための西濃鉄道が乗り入れを開始した。
現在もJR東海(1日18便)・JR貨物(1日3便)として運行している。美濃赤坂駅は、支線開通の年に建設されたままの木造平屋建てである。明治19年築(1886)の武豊線・亀崎駅(2013・4・16参照)ほど古くはないが、ノスタルジックな雰囲気の残る駅舎である。

美濃赤坂のお茶屋屋敷跡
慶長5年(1600)9月14日、徳川家康は3万人の軍勢で美濃赤坂に到着した。陣を張ったのは「岡山」、標高53mの山というより丘のような高台である。しかし、中山道を見下ろすには格好の展望台となる。現在は「勝山」と呼ぶ。関ヶ原に戦勝した縁起を担いで改名したのであろう。
岡山の北に「お茶屋屋敷」があった。その東は中山道「赤坂宿」であり、さらに進むと「赤坂湊」があった。このお屋敷は、家康が上洛するときの宿泊場所として造られたものである。茶屋とはいえ城郭形式で、全体を堀と土塁で囲んでいた。四隅には櫓を備え、正面には大手門まであったという。

大坂城には未だ豊臣家が存続しており、若き日に信長が襲われた事件を目の当たりにした家康としては、旅先とはいえ厳重な警備を怠らなかったのであろう。名古屋では城内に本丸御殿を造成して宿泊場所に当てた。ちなみに尾張藩主は、二の丸御殿に居住していた。
家康没後は次第に使用されなくなり、破損が著しくて廃絶されてしまった。明治4年の廃藩置県のときに、村の名主・矢橋氏に払い下げられて現在に至る。中央部分は広大な「牡丹園」として公開されている。敷地の周辺を見ると、土塁・堀の凹凸や古井戸の跡などが残っており、往時を偲ぶことができる。

岡山の北に「お茶屋屋敷」があった。その東は中山道「赤坂宿」であり、さらに進むと「赤坂湊」があった。このお屋敷は、家康が上洛するときの宿泊場所として造られたものである。茶屋とはいえ城郭形式で、全体を堀と土塁で囲んでいた。四隅には櫓を備え、正面には大手門まであったという。

大坂城には未だ豊臣家が存続しており、若き日に信長が襲われた事件を目の当たりにした家康としては、旅先とはいえ厳重な警備を怠らなかったのであろう。名古屋では城内に本丸御殿を造成して宿泊場所に当てた。ちなみに尾張藩主は、二の丸御殿に居住していた。
家康没後は次第に使用されなくなり、破損が著しくて廃絶されてしまった。明治4年の廃藩置県のときに、村の名主・矢橋氏に払い下げられて現在に至る。中央部分は広大な「牡丹園」として公開されている。敷地の周辺を見ると、土塁・堀の凹凸や古井戸の跡などが残っており、往時を偲ぶことができる。

美濃赤坂の杭瀬川
中山道は京都を出発し、彦根・関ヶ原から美濃赤坂・大垣を経て加納(岐阜)へ向かう。(東海道本線が通っているので紛らわしいが、東海道はもっと南・桑名から亀山方面を通る道である)その重要な関所「不破の関」(現在の関ヶ原)は古代「壬申の乱」(672)以来、東西勢力の激突地であった。
慶長5年(1600)9月15日、天下分目の「関ヶ原の合戦」が行われた。その前日の14日、合戦の前哨戦とも言える「杭瀬川の戦い」が勃発する。大垣城を拠点と構える石田三成に対し、徳川家康は一歩京に近い「美濃赤坂の岡山」(現在は勝山という)に陣を置いたのである。

杭瀬川を挟んだ小競り合いであったが、西軍が勝利を収めた。翌日、三成は城を出て関ヶ原に陣を張る。その後の戦況は、小説やドラマなどで知る通りである。(来年の大河ドラマは「徳川家康」という)城攻めより野戦を得意とする家康の作戦に、三成が誘い出されてしまったのである。
杭瀬川は濃尾平野の最西端を流れる一級河川である。現在は細い流れであるが、元は大河川であった。洪水により流れが変わって、今は揖斐川が本流となっている。近くに「金生山」という石灰岩の山があり、採掘が行われている。水が綺麗なので、源氏ボタルが生息している。


慶長5年(1600)9月15日、天下分目の「関ヶ原の合戦」が行われた。その前日の14日、合戦の前哨戦とも言える「杭瀬川の戦い」が勃発する。大垣城を拠点と構える石田三成に対し、徳川家康は一歩京に近い「美濃赤坂の岡山」(現在は勝山という)に陣を置いたのである。

杭瀬川を挟んだ小競り合いであったが、西軍が勝利を収めた。翌日、三成は城を出て関ヶ原に陣を張る。その後の戦況は、小説やドラマなどで知る通りである。(来年の大河ドラマは「徳川家康」という)城攻めより野戦を得意とする家康の作戦に、三成が誘い出されてしまったのである。
杭瀬川は濃尾平野の最西端を流れる一級河川である。現在は細い流れであるが、元は大河川であった。洪水により流れが変わって、今は揖斐川が本流となっている。近くに「金生山」という石灰岩の山があり、採掘が行われている。水が綺麗なので、源氏ボタルが生息している。

