fc2ブログ

Entries

揖斐川橋梁(樽見鉄道)と揖斐大橋

 鉄道が揖斐川を跨ぐ橋梁が3本ある。南から順に、①JR東海道本線「揖斐川橋梁」、②「旧揖斐川橋梁」(2014・2・5掲載)、③樽見鉄道・樽見線(2013・12・9参照)「揖斐川橋梁」である。ここでは、樽見鉄道の橋梁をご紹介する。
 樽見鉄道の前身「国鉄樽見線」は、昭和10年に着工したが戦争により一時中断、揖斐川橋梁も工事に入ったが完成直前に撤去されてしまった(金属回収?)。再開されて開通したのは戦後、昭和31年になってからである。橋梁は新設でなく、御殿場線の5か所のトラス橋を再利用した。
 写真で左端の台形の橋は長さ100フィート(約30m)、大正5年の川崎造船所製である。右の5連のトラス橋は各200フィート、明治33年のAアンドP・ロバーツ製である。昭和59年に3セクの樽見鉄道に移管した。カラフルな1両編成の車両が走っていた。

揖斐大橋マップ

 少し下流の県道31号に、「揖斐大橋」が架かっている。長さ約385m、幅員約15mのワーレントラス橋である。昭和8年に完成したときには鉄道との併用であったが、鉄道計画は事業化されず昭和39年に道路専用橋となった。岐阜と大垣を道路(県道31号)と鉄道で結ぼうとの計画があったのである。

揖斐大橋G

赤坂湊跡と美濃赤坂駅

 赤阪宿は江戸から数えて56番目の宿場町である。歌川広重の「木曽街道六十九次」では川(杭瀬川?)を渡る土橋の景色として描かれている。本陣・脇本陣と17軒の旅籠が建ち並んでいた。金生山(きんしょうざん)で採掘される石灰と大理石を利用した工業が興り、大いに繁盛していたという。
 杭瀬川に繋がる運河があり、中山道と交わる地点に川湊があった。肥料用の石灰や建築資材としての大理石などが、船により運搬されていた。現在も、船着き場と常夜灯が残っている。白壁の洋風建物は、明治8年(1875)に建てられた警察屯所で、今は赤坂港会館として使用されている。

赤坂湊G

 赤坂湊は、往時は500艘もの船が往来していた。しかし、東海道本線の支線「美濃赤坂線」の開通により、また下流に水門が出来たことにより廃絶となってしまった。支線は、大正8年(1919)に開通し、昭和3年には石灰石輸送のための西濃鉄道が乗り入れを開始した。
 現在もJR東海(1日18便)・JR貨物(1日3便)として運行している。美濃赤坂駅は、支線開通の年に建設されたままの木造平屋建てである。明治19年築(1886)の武豊線・亀崎駅(2013・4・16参照)ほど古くはないが、ノスタルジックな雰囲気の残る駅舎である。

赤坂駅マップ

美濃赤坂のお茶屋屋敷跡

 慶長5年(1600)9月14日、徳川家康は3万人の軍勢で美濃赤坂に到着した。陣を張ったのは「岡山」、標高53mの山というより丘のような高台である。しかし、中山道を見下ろすには格好の展望台となる。現在は「勝山」と呼ぶ。関ヶ原に戦勝した縁起を担いで改名したのであろう。
 岡山の北に「お茶屋屋敷」があった。その東は中山道「赤坂宿」であり、さらに進むと「赤坂湊」があった。このお屋敷は、家康が上洛するときの宿泊場所として造られたものである。茶屋とはいえ城郭形式で、全体を堀と土塁で囲んでいた。四隅には櫓を備え、正面には大手門まであったという。

赤坂 茶屋マップ

 大坂城には未だ豊臣家が存続しており、若き日に信長が襲われた事件を目の当たりにした家康としては、旅先とはいえ厳重な警備を怠らなかったのであろう。名古屋では城内に本丸御殿を造成して宿泊場所に当てた。ちなみに尾張藩主は、二の丸御殿に居住していた。
 家康没後は次第に使用されなくなり、破損が著しくて廃絶されてしまった。明治4年の廃藩置県のときに、村の名主・矢橋氏に払い下げられて現在に至る。中央部分は広大な「牡丹園」として公開されている。敷地の周辺を見ると、土塁・堀の凹凸や古井戸の跡などが残っており、往時を偲ぶことができる。
赤坂 茶屋G

美濃赤坂の杭瀬川

 中山道は京都を出発し、彦根・関ヶ原から美濃赤坂・大垣を経て加納(岐阜)へ向かう。(東海道本線が通っているので紛らわしいが、東海道はもっと南・桑名から亀山方面を通る道である)その重要な関所「不破の関」(現在の関ヶ原)は古代「壬申の乱」(672)以来、東西勢力の激突地であった。
 慶長5年(1600)9月15日、天下分目の「関ヶ原の合戦」が行われた。その前日の14日、合戦の前哨戦とも言える「杭瀬川の戦い」が勃発する。大垣城を拠点と構える石田三成に対し、徳川家康は一歩京に近い「美濃赤坂の岡山」(現在は勝山という)に陣を置いたのである。

杭瀬川マップ

 杭瀬川を挟んだ小競り合いであったが、西軍が勝利を収めた。翌日、三成は城を出て関ヶ原に陣を張る。その後の戦況は、小説やドラマなどで知る通りである。(来年の大河ドラマは「徳川家康」という)城攻めより野戦を得意とする家康の作戦に、三成が誘い出されてしまったのである。
 杭瀬川は濃尾平野の最西端を流れる一級河川である。現在は細い流れであるが、元は大河川であった。洪水により流れが変わって、今は揖斐川が本流となっている。近くに「金生山」という石灰岩の山があり、採掘が行われている。水が綺麗なので、源氏ボタルが生息している。

杭瀬川G

季節通信190ホタルブクロ


▲ページトップ

Appendix

カレンダー

07 | 2022/08 | 09
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31 - - -

ブログを始めるに当って

 私ども「中部復建」は、戦後から一貫して土木施設の計画設計に携わってきました。地域の皆さんに、より身近に土木を感じて頂きたく先人が残してくれた土木遺産等を訪ね歩き≪中部の『土木文化』見てある記≫として、皆さんに紹介していきたいと思い、このブログを発信する事としました。  

コンパクト月別アーカイブ

最新記事

         

建設・補償コンサルタント

プロフィール

FC2USER480348EQK

Author:FC2USER480348EQK
森 田 高 尚
昭和21年6月 半田市生まれ
平成12年 東山植物園長
平成17年 名古屋市緑地部長
平成19年 中電ブルーボネット園長
平成24年 中部復建技術顧問
技術士:(建設部門・環境部門)
公園管理運営士 
著書:『園長さんのガーデンライフ』
監修:『世界一うつくしい植物園』
 (著者:木谷美咲)
FC2ブログへようこそ!

最新トラックバック

        

検索フォーム

QRコード

QR
▲ページトップ