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稲武大橋・瑞龍寺・風のつり橋
飯田街道(国道153号)は、昭和52年に城山トンネルができるまでは、城山を迂回するルートだった。現在は国道の北側、古い町並みの残る旧道がそれである。名倉川(矢作川の支流)に立派な鉄橋が架けられたのは大正15年のことである。「稲武大橋」という。
この当時は、貴重な鉄骨を使った橋は少なく、その製作技術も圧巻だったという。橋を渡っている時は、ごく平凡な橋にしか見えない。しかし、河原へ降りて下から見ると、その苦心の跡を見ることができる。細いアングル材を鉄板とリベットで繋ぎ合わせて、トラスとアーチの構造に仕上げている。

どんぐりの湯とトンネル、橋を過ぎた左側に、枝垂れ桜の大木がある。花の時季に寄ってみたいと思うのだが、いつも通過してしまう。瑞龍寺という古刹の境内に植えられている。正保元年(1644)ごろの植栽、高さ8m、幹回り3.4m。県の天然記念物に指定されている。
名倉川の少し上流へ国道257号で遡ると、木製の吊り橋が架かっている。「風のつり橋」と名付けられている。橋を渡った正面に見える小山は「大井平公園」といい、秋の紅葉は見事である。このあたりの名倉川は水が綺麗で、夏はホタルが飛び交うという。


この当時は、貴重な鉄骨を使った橋は少なく、その製作技術も圧巻だったという。橋を渡っている時は、ごく平凡な橋にしか見えない。しかし、河原へ降りて下から見ると、その苦心の跡を見ることができる。細いアングル材を鉄板とリベットで繋ぎ合わせて、トラスとアーチの構造に仕上げている。

どんぐりの湯とトンネル、橋を過ぎた左側に、枝垂れ桜の大木がある。花の時季に寄ってみたいと思うのだが、いつも通過してしまう。瑞龍寺という古刹の境内に植えられている。正保元年(1644)ごろの植栽、高さ8m、幹回り3.4m。県の天然記念物に指定されている。
名倉川の少し上流へ国道257号で遡ると、木製の吊り橋が架かっている。「風のつり橋」と名付けられている。橋を渡った正面に見える小山は「大井平公園」といい、秋の紅葉は見事である。このあたりの名倉川は水が綺麗で、夏はホタルが飛び交うという。


鞍ヶ池公園と「虹の架け橋」
鞍ヶ池公園は、豊田市市街地(合併前)の東部丘陵にある。農業用ため池「鞍ヶ池」一帯に広がる広大な総合公園である。愛知高原国定公園という豊かな自然環境を生かし、子供たちの遊具がある「プレイハウス」、自由に遊べる「芝生広場」、丘の上の「展望台」などがある。
また、大きなバードホールのある「動物園」や二つの温室を持つ「植物園」もある。動物園に隣接して「観光牧場」や「動物ふれあい広場」も整っている。牧場の手前には名鉄最古の車両が展示され、園内にはトレイン・バスが走っている。いずれも真赤に塗装されて、森林の濃緑・芝生の黄緑と見事に調和している。東海環状自動車道の「鞍ヶ池PA」からも利用でき、交通の便も良好である。

公園の中央を、県道343号が南北を分断して走っている。横断歩道が何本かあるが、観光牧場と若草山をつなぐ橋を「虹の架け橋」という。中路式のニールセンローゼ橋、そのアーチが虹のように見える。丘の上部を結んでいるので道路面から15mと高く、見上げるような位置にある。
昭和59年(1984)に完成、橋長91mで幅員は5mである。県道を走りながらも個性的な景観を見ることができるが、歩いて渡っても面白い形をしている。見る角度によって形が変化する。このようなデザインも含めて、土木学会の「田中賞」を受賞している。

また、大きなバードホールのある「動物園」や二つの温室を持つ「植物園」もある。動物園に隣接して「観光牧場」や「動物ふれあい広場」も整っている。牧場の手前には名鉄最古の車両が展示され、園内にはトレイン・バスが走っている。いずれも真赤に塗装されて、森林の濃緑・芝生の黄緑と見事に調和している。東海環状自動車道の「鞍ヶ池PA」からも利用でき、交通の便も良好である。

公園の中央を、県道343号が南北を分断して走っている。横断歩道が何本かあるが、観光牧場と若草山をつなぐ橋を「虹の架け橋」という。中路式のニールセンローゼ橋、そのアーチが虹のように見える。丘の上部を結んでいるので道路面から15mと高く、見上げるような位置にある。
昭和59年(1984)に完成、橋長91mで幅員は5mである。県道を走りながらも個性的な景観を見ることができるが、歩いて渡っても面白い形をしている。見る角度によって形が変化する。このようなデザインも含めて、土木学会の「田中賞」を受賞している。

蒲郡の「八百富神社」と「クラシックホテル」
蒲郡の沖合400mほどに浮かぶ竹島は、面積2haほどの小さな島である。島には「八百富神社」(別名「竹島弁天」)が鎮座している。全域が神社の境内で、こんもりした樹林に覆われている。この森はシイやカシなど暖地性の照葉樹林で、国の天然記念物に指定されている。
神社の創建は養和元年(1181)と古く、国司の藤原氏が琵琶湖・竹生島から勧請したという。陸側にもお社があり、竹島橋で繋がっている。橋の出来たのは比較的新しく昭和5年のこと。名古屋の篤志家の寄付によるものである。現在は2代目で、昭和61年に架け変えられた。

竹島の対岸、標高30mほどの山の上に「蒲郡クラシックホテル」(旧蒲郡ホテル)が佇んでいる。海岸沿いに明治45年に創業した料理旅館「常盤館」の別館として、昭和9年に建設された。国が企画した「国際観光ホテル」に応募し、横浜・雲仙・大津とともに選ばれたものである。
常盤館の本館は取り壊されたが、蒲郡ホテルは「蒲郡クラシックホテル」と名称を変えて生き抜いている。かつては多くの作家や文化人の逗留があり、その記録が山麓の「海辺の文学記念館」に残されている。庭園も美しく、特にツツジの名所としても知られている。


神社の創建は養和元年(1181)と古く、国司の藤原氏が琵琶湖・竹生島から勧請したという。陸側にもお社があり、竹島橋で繋がっている。橋の出来たのは比較的新しく昭和5年のこと。名古屋の篤志家の寄付によるものである。現在は2代目で、昭和61年に架け変えられた。

竹島の対岸、標高30mほどの山の上に「蒲郡クラシックホテル」(旧蒲郡ホテル)が佇んでいる。海岸沿いに明治45年に創業した料理旅館「常盤館」の別館として、昭和9年に建設された。国が企画した「国際観光ホテル」に応募し、横浜・雲仙・大津とともに選ばれたものである。
常盤館の本館は取り壊されたが、蒲郡ホテルは「蒲郡クラシックホテル」と名称を変えて生き抜いている。かつては多くの作家や文化人の逗留があり、その記録が山麓の「海辺の文学記念館」に残されている。庭園も美しく、特にツツジの名所としても知られている。


金山宿の「筋骨」と金山橋
飛騨街道は越中街道・鯖街道とも呼ばれ、美濃から飛騨そして越中(富山)を結ぶ重要な街道であった。中山道の太田宿から枝分かれして北上する。金山宿・下呂宿・高山宿・古川宿など、現在も魅力的な町並みを残す宿場町が点在する。
金山宿は、美濃と飛騨の国ざかいにあり、また飛騨川と馬瀬川の合流点にある。幾筋かの街道や脇道が出合う所であり、舟運の拠点「金山湊」があったことから、多くの物資が集められ、経済的にも大きく発展していた。今も重厚な「造り酒屋」や木造三階建ての「お城造りの家」などが残っている。

現在は金山橋により飛騨川と馬瀬川の合流点を跨いでいるが、かつては「大船渡の渡し」により舟で行き来していた。昭和3年(1928)に左岸側に鉄道が開通し、右岸側の宿場町と繋ぐために「金山橋」が架けられた。二重トラス構造の珍しい形をしている。
飛騨街道の両側には、狭い迷路のような脇道が張り巡らされている。「筋骨(きんこつ)」と呼ぶ。家と家、石積みと石積みの間に1m内外の狭い道が続いている。階段を降りた所に「清水」があった。町人の大切な生活用水で、「1号池は飲み水・2号池は冷し物・3号池は食器や野菜洗い・4号池は洗濯物」との規定を記した看板が掲げられている。

金山宿は、美濃と飛騨の国ざかいにあり、また飛騨川と馬瀬川の合流点にある。幾筋かの街道や脇道が出合う所であり、舟運の拠点「金山湊」があったことから、多くの物資が集められ、経済的にも大きく発展していた。今も重厚な「造り酒屋」や木造三階建ての「お城造りの家」などが残っている。

現在は金山橋により飛騨川と馬瀬川の合流点を跨いでいるが、かつては「大船渡の渡し」により舟で行き来していた。昭和3年(1928)に左岸側に鉄道が開通し、右岸側の宿場町と繋ぐために「金山橋」が架けられた。二重トラス構造の珍しい形をしている。
飛騨街道の両側には、狭い迷路のような脇道が張り巡らされている。「筋骨(きんこつ)」と呼ぶ。家と家、石積みと石積みの間に1m内外の狭い道が続いている。階段を降りた所に「清水」があった。町人の大切な生活用水で、「1号池は飲み水・2号池は冷し物・3号池は食器や野菜洗い・4号池は洗濯物」との規定を記した看板が掲げられている。

下呂駅と六見橋
中山七里の終点はこの辺り。川幅も広く、堆積平野も広大である。豊富な温泉が湧くので有名な観光地となった。「日本三大名泉」に数えられる「下呂温泉」である。ただ、湯壺が川底にあり、水害の度に逸失してしまうので、温泉街として確立したのは源泉が技術的に安定した大正時代以降という。
国鉄高山線が下呂まで延伸したのは昭和5年(1930)、交通の便ができて観光熱は一層高まった。下呂駅は終着駅として開業した。島式も含め3線のプラットホームがあり、跨線橋で渡る。木造平屋の駅舎とともに、建設当初の雰囲気を保っている。

下呂駅より600mほど下流に「六見橋(ろくみばし)」がある。架橋は昭和6年、高山線の開通と期を合わせている。鉄道線路が右岸にあるので、左岸側の湯之島地区への行き来を図ったのであろう。この地には、それ以前に吊り橋があり、さらにその前は「塚田の渡し」という渡船場があった。
型式は2連の弓弦状アーチトラス、細い部材で構成されているので瀟洒な雰囲気である。現在は県営であるが、建設は下呂町(当時)が行った。昭和の時代は鉄道による観光客も多かったが、道路整備が進んだ近年は激減し、下呂駅の乗降客は1日1000人以下、観光客はその20%ほどという。

国鉄高山線が下呂まで延伸したのは昭和5年(1930)、交通の便ができて観光熱は一層高まった。下呂駅は終着駅として開業した。島式も含め3線のプラットホームがあり、跨線橋で渡る。木造平屋の駅舎とともに、建設当初の雰囲気を保っている。

下呂駅より600mほど下流に「六見橋(ろくみばし)」がある。架橋は昭和6年、高山線の開通と期を合わせている。鉄道線路が右岸にあるので、左岸側の湯之島地区への行き来を図ったのであろう。この地には、それ以前に吊り橋があり、さらにその前は「塚田の渡し」という渡船場があった。
型式は2連の弓弦状アーチトラス、細い部材で構成されているので瀟洒な雰囲気である。現在は県営であるが、建設は下呂町(当時)が行った。昭和の時代は鉄道による観光客も多かったが、道路整備が進んだ近年は激減し、下呂駅の乗降客は1日1000人以下、観光客はその20%ほどという。

中山七里と境橋
国道41号は名古屋から小牧・美濃加茂を経て、下呂・高山・飛騨を通って富山に至る。日本列島の最も幅広い所を横断する道路である。JR高山線も岐阜が起点であるが、ほぼ同じルートを走る。途中、飛騨川に沿って北上する。
飛騨金山駅近くに架かる「境橋」から、下呂の「六見橋」あたりまでの渓谷を「中山七里」と呼ぶ。急峻な山地を飛騨川が浸食したもので、奇岩が多く岩ツツジなどもへばりついている。春は桜、秋は紅葉が美しく、夏は蛍が飛び交うという。

「境橋」の架かるこの地は、かつて美濃と飛騨の国境になっていた場所である。尾張と三河の国境いを流れる川を「境川」と呼ぶのと同じであろう。初めて橋で繋がったのは明治12年(1879)のこと。その後、数回に亘って洪水で流されてしまった。現在のものは昭和5年に造られた。
橋を渡った東側に、お地蔵様と簡単な道しるべがある。子安自蔵、住吉権現と刻まれた石柱も立っている。その手前の舗装にマンホールがあって、鋳鉄に「国土地理院・水準点」と記されている。ここは、伊能忠敬が「飛騨の起点」と定めた地点という。

飛騨金山駅近くに架かる「境橋」から、下呂の「六見橋」あたりまでの渓谷を「中山七里」と呼ぶ。急峻な山地を飛騨川が浸食したもので、奇岩が多く岩ツツジなどもへばりついている。春は桜、秋は紅葉が美しく、夏は蛍が飛び交うという。

「境橋」の架かるこの地は、かつて美濃と飛騨の国境になっていた場所である。尾張と三河の国境いを流れる川を「境川」と呼ぶのと同じであろう。初めて橋で繋がったのは明治12年(1879)のこと。その後、数回に亘って洪水で流されてしまった。現在のものは昭和5年に造られた。
橋を渡った東側に、お地蔵様と簡単な道しるべがある。子安自蔵、住吉権現と刻まれた石柱も立っている。その手前の舗装にマンホールがあって、鋳鉄に「国土地理院・水準点」と記されている。ここは、伊能忠敬が「飛騨の起点」と定めた地点という。

七宗ダムと「田島の火道角れき岩」
名倉ダムのさらなる上流に「七宗ダム」がある。飛騨川を堰き止めてはいるが、高さは10.6メートルしかない。ダムと言うより堰に近い構造物である。発電専用で、2km下流の七宗発電所まで水路で水を送っている。
有効落差は15.5mと小さいので水量の割に発電量は少なく、最大で6200KWにすぎない。建設年次は、七宗発電所の運用開始が大正14年(1925)とあるので、同時期の完成と思われる。鉄製の可動堰2門が青色に塗られていて、遠くからでもよく目立つ。

上流側は水が溜まっているので見えないが、下流側は岩盤が姿を現している。この岩は「田島の火道角れき岩」という。火山噴火により堆積した「火山角れき岩」とは異なる。地下のマグマが上昇する際に、その通路(火道)の周囲の岩石を一緒に巻き込んで噴出したものである。
噴火は、白亜紀末期(約6500万年前)に起こった。岩に含まれる「れき」の大きさは、直径2mを超す大きなものから、数ミリ以下の細かいものまである。大きいものは濃飛流紋岩で、垂直に引き延ばされたような形をしている。小さいものはチャートなどからなり、角ばったものが多い。

有効落差は15.5mと小さいので水量の割に発電量は少なく、最大で6200KWにすぎない。建設年次は、七宗発電所の運用開始が大正14年(1925)とあるので、同時期の完成と思われる。鉄製の可動堰2門が青色に塗られていて、遠くからでもよく目立つ。

上流側は水が溜まっているので見えないが、下流側は岩盤が姿を現している。この岩は「田島の火道角れき岩」という。火山噴火により堆積した「火山角れき岩」とは異なる。地下のマグマが上昇する際に、その通路(火道)の周囲の岩石を一緒に巻き込んで噴出したものである。
噴火は、白亜紀末期(約6500万年前)に起こった。岩に含まれる「れき」の大きさは、直径2mを超す大きなものから、数ミリ以下の細かいものまである。大きいものは濃飛流紋岩で、垂直に引き延ばされたような形をしている。小さいものはチャートなどからなり、角ばったものが多い。

高山線・白川口駅と名倉ダム
「JR高山本線」は、岐阜と高山を結んでいる。開業の歴史は・・・「高山線」は大正9年(1920)に岐阜から小坂まで、そして徐々に北上。北からは「飛越線」として昭和2年に富山から越中八尾まで、徐々に南下。全線が開通したのは昭和9年のことである。
白川口駅は、木造平屋の可愛らしい建物である。大正15年に上麻布から延伸したとき、その終着駅として開業した。加茂郡「白川町」は、合掌造りで有名な「飛騨・白川村」と紛らわしいが、こちらは美濃の国に属す。北のはずれに、美濃と飛騨の国境がある。人口7千人ほどの町である。

白川口駅と飛騨金山駅との間に、「名倉ダム」がある。ダムとは言うものの、高さの低い取水用の堰堤である。6km下流の名倉発電所まで送水して発電する。落差は約35m、出力は約2万kwである。昭和11年に運用を開始した。
水門の上部にアーチトラスの鉄橋があり、管理用通路となっている。国道から階段があって、一般の人も通行することができる。対岸の住民の便宜を考えてのことだろう。狭い通路は一部がトンネルになっている。前回の上麻布ダムのところで記した「ローリング・ゲート」の「ドラム」を間近に見ることができる。

白川口駅は、木造平屋の可愛らしい建物である。大正15年に上麻布から延伸したとき、その終着駅として開業した。加茂郡「白川町」は、合掌造りで有名な「飛騨・白川村」と紛らわしいが、こちらは美濃の国に属す。北のはずれに、美濃と飛騨の国境がある。人口7千人ほどの町である。

白川口駅と飛騨金山駅との間に、「名倉ダム」がある。ダムとは言うものの、高さの低い取水用の堰堤である。6km下流の名倉発電所まで送水して発電する。落差は約35m、出力は約2万kwである。昭和11年に運用を開始した。
水門の上部にアーチトラスの鉄橋があり、管理用通路となっている。国道から階段があって、一般の人も通行することができる。対岸の住民の便宜を考えてのことだろう。狭い通路は一部がトンネルになっている。前回の上麻布ダムのところで記した「ローリング・ゲート」の「ドラム」を間近に見ることができる。
