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◆清洲城◆
桶狭間の戦いの前夜、・・・♪♪人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり♪♪・・・ 信長は「敦盛」を舞って清州城を出陣したという。(現在の清洲城には、桶狭間方面を睨む信長の銅像が立っている)
清須市の五条川の畔には、平成元年に再建された立派な天守閣が建っている。しかし「桶狭間」の当時は(1560年)このような天守閣はなかったものと思われる(館や防御の堀などだったか?)。
名古屋城の北西角に「清洲櫓」(重要文化財)と呼ばれる隅櫓が残っている。これは「清洲越し」(慶長15年=1610年)のときに、清州から移築した「小天守」だと言われている。「関ヶ原」(1600年)のころにはこのような天守閣があったのだろう。

清須市の五条川の畔には、平成元年に再建された立派な天守閣が建っている。しかし「桶狭間」の当時は(1560年)このような天守閣はなかったものと思われる(館や防御の堀などだったか?)。
名古屋城の北西角に「清洲櫓」(重要文化財)と呼ばれる隅櫓が残っている。これは「清洲越し」(慶長15年=1610年)のときに、清州から移築した「小天守」だと言われている。「関ヶ原」(1600年)のころにはこのような天守閣があったのだろう。

三河湖(羽布ダム)と香恋橋
豊田・松平の東、三河山地の中央部に羽布ダム・三河湖はある。矢作川の支流・巴川を堰き止めたダムで、高さ約63m、堤頂の長さは約400mである。湖の面積は107ha、51km2の流域から2000万㎥の水を貯め込む。昭和37年に完成した。
矢作川は水量豊かな川で、古くから人々に多大な恩恵を与えている。明治になると、明治用水や枝下用水が開かれ、発電所も次々に開発された。そうした中、昭和19年・20年の大干ばつで下流域の農業は大被害を被ってしまった。

これを契機に、根本的な対策として巴川に農業用の利水ダムを造ることとなったのである。三河湖は県最大の灌漑用ダム湖であるが、周辺の自然環境が良好なので観光用としても重要である。キャンプ・魚釣り・ボート遊覧にも親しまれている。放流水を利用した「小水力」発電所も設置されている。
行楽客の散策のため、ダムのすぐ下に吊り橋が架かっている。「香恋橋(かれんばし)」という。長さ46m・幅2.5mの人道橋、昭和40年の完成である。橋の麓に農家造りのレストランがある。お土産を買うこともできる。「羽布ダムカレー」という面白いランチがあった。揚げたてのコロッケもついて美味しかった。

矢作川は水量豊かな川で、古くから人々に多大な恩恵を与えている。明治になると、明治用水や枝下用水が開かれ、発電所も次々に開発された。そうした中、昭和19年・20年の大干ばつで下流域の農業は大被害を被ってしまった。

これを契機に、根本的な対策として巴川に農業用の利水ダムを造ることとなったのである。三河湖は県最大の灌漑用ダム湖であるが、周辺の自然環境が良好なので観光用としても重要である。キャンプ・魚釣り・ボート遊覧にも親しまれている。放流水を利用した「小水力」発電所も設置されている。
行楽客の散策のため、ダムのすぐ下に吊り橋が架かっている。「香恋橋(かれんばし)」という。長さ46m・幅2.5mの人道橋、昭和40年の完成である。橋の麓に農家造りのレストランがある。お土産を買うこともできる。「羽布ダムカレー」という面白いランチがあった。揚げたてのコロッケもついて美味しかった。

◆桶狭間古戦場公園◆
もう40年も前のことで、覚えている人も少ないと思うので記録に留めたい。「桶狭間古戦場跡」は豊明市にもあるが、名古屋市にもあって競合している。名古屋市では大高緑地の東側の、「桶狭間古戦場公園」という区画整理で整備した小さな公園になっている。
このスケッチは、公園整備前の現地の状況を思い出して描いた。谷間の窪地に「祠」があり、「湧水(泉)」と「杜松(としょう)の枯れ木」があった。絵に描くのを忘れたが、何基もの石碑が立っていた。「泉」は水の勢いがあり、桶を入れるとクルクルと回ったという。「桶狭間」の語源である。この水で義元の首を洗ったと聞いた。「トショウ」はネズミサシのことで、義元のカブトを架けた。
私はこの状況をそのまま残して公園にすべきと考えた。しかし、区画整理の盛土によりさらに深い窪地になってしまう。残念ながらこの地形は埋め立てられて、現代的な公園になってしまった。私の38年間の公園の仕事の中で、数少ない悔やむべき結果だと思っている。


このスケッチは、公園整備前の現地の状況を思い出して描いた。谷間の窪地に「祠」があり、「湧水(泉)」と「杜松(としょう)の枯れ木」があった。絵に描くのを忘れたが、何基もの石碑が立っていた。「泉」は水の勢いがあり、桶を入れるとクルクルと回ったという。「桶狭間」の語源である。この水で義元の首を洗ったと聞いた。「トショウ」はネズミサシのことで、義元のカブトを架けた。
私はこの状況をそのまま残して公園にすべきと考えた。しかし、区画整理の盛土によりさらに深い窪地になってしまう。残念ながらこの地形は埋め立てられて、現代的な公園になってしまった。私の38年間の公園の仕事の中で、数少ない悔やむべき結果だと思っている。


新東名高速「豊田アローズブリッジ」
ブログの取材などのために高速道路を走るとき、よくこの橋を渡る。名港のトリトン(2017・3・12)も巨大でシンボリックだが、この橋はさらにビッグなイメージである。停車するわけにはいかないので、フロントガラス越しに何回か写真を撮った。一度、地上から眺めてみたいと思っていた。
下から見るとそのボリュームにびっくりする。特に橋脚の基部というか橋台というか、コンクリートの固まりはもの凄い。幅は50mを越えるものと思われる。主塔の高さは110m。橋長820m、幅員約45m、「波形ウェーブPC複合斜張橋」という。平成17年(2005)に完成している。

新東名高速道路が矢作川を越える地点に架かっている。完成時には、まだ伊勢湾岸道路と言っていた。愛知万博開幕直前の開通であり、自動車での来場を想定しての供用開始であった。その前年には、土木学会に認められて「田中賞・作品部門」を授与されている。
「アローズ」というのは英語で「複数の矢」を意味する。矢作川の「矢」も意識しているのであろう。私はその形から、いつも「竪琴」を連想してしまう。現在のハープでなく、古典的な「ライアー・ハープ」である。鶴舞公園の奏楽堂の屋根飾りに使われているモニュメントに似ていると思う。

下から見るとそのボリュームにびっくりする。特に橋脚の基部というか橋台というか、コンクリートの固まりはもの凄い。幅は50mを越えるものと思われる。主塔の高さは110m。橋長820m、幅員約45m、「波形ウェーブPC複合斜張橋」という。平成17年(2005)に完成している。

新東名高速道路が矢作川を越える地点に架かっている。完成時には、まだ伊勢湾岸道路と言っていた。愛知万博開幕直前の開通であり、自動車での来場を想定しての供用開始であった。その前年には、土木学会に認められて「田中賞・作品部門」を授与されている。
「アローズ」というのは英語で「複数の矢」を意味する。矢作川の「矢」も意識しているのであろう。私はその形から、いつも「竪琴」を連想してしまう。現在のハープでなく、古典的な「ライアー・ハープ」である。鶴舞公園の奏楽堂の屋根飾りに使われているモニュメントに似ていると思う。

豊田大橋と久澄橋
昨年はサッカーのワールドカップで盛り上がったが、4年前(2019)にはラグビーワールドカップが国中を熱狂させた。豊田市でも予選の4試合が開催され、海外からの応援団を含めてたくさんの観客が詰めかけた。観客の多くは、豊田市駅を降りて「豊田大橋」を渡ってスタジアムへ向かう。
その様子は、2019年10月に4回に亘ってご報告した。「豊田大橋」は、バスケットハンドル型ニールセンローゼ橋という形式で、長さは約475mである。平成11年(1999)の完成。スタジアムと同じ黒川紀章の設計によるので、両者を合わせて一体のデザインとなっている。

豊田大橋の1本下流に、もうひとつ白亜の橋梁が架かっている。「久澄橋」という。長さ274m、幅員25m、二つの大きなアーチのある単弦ローゼ橋である。独創的なデザインと景観の両立、構造の統一性などが評価されて、平成6年度(1994)の土木学会田中賞を受賞している。
松平や稲武方面へ行くときによく通る橋である。豊田の市街地を抜け、視界が広々と開ける。矢作川河川敷の芝生も美しく、上流に見える真っ白なスタジアムや大橋と調和している。黒川紀章のアートを鑑賞しながら走る、心地良い空間である。

その様子は、2019年10月に4回に亘ってご報告した。「豊田大橋」は、バスケットハンドル型ニールセンローゼ橋という形式で、長さは約475mである。平成11年(1999)の完成。スタジアムと同じ黒川紀章の設計によるので、両者を合わせて一体のデザインとなっている。

豊田大橋の1本下流に、もうひとつ白亜の橋梁が架かっている。「久澄橋」という。長さ274m、幅員25m、二つの大きなアーチのある単弦ローゼ橋である。独創的なデザインと景観の両立、構造の統一性などが評価されて、平成6年度(1994)の土木学会田中賞を受賞している。
松平や稲武方面へ行くときによく通る橋である。豊田の市街地を抜け、視界が広々と開ける。矢作川河川敷の芝生も美しく、上流に見える真っ白なスタジアムや大橋と調和している。黒川紀章のアートを鑑賞しながら走る、心地良い空間である。

◆◆桶狭間古戦場◆◆
◆◆NHK大河ドラマが始まりました。今年は「どうする家康」です。このブログは「中部の・・・」ですから、家康や徳川に係わる「土木文化」も数多くご紹介してきました。これから時々思い起こしながら再掲していきたいと思います。◆◆
「桶狭間の戦い」は、信長の天下取りの端緒ともなった戦いであるとともに、家康のデビュー戦でもある。戦国の歴史の中でも最も重要なエポックだと思う。信長が鉄砲を導入した「長篠の合戦」や、家康の天下取りに繋がった「関ヶ原の戦い」に匹敵する歴史の大転換点であった。
桶狭間の地には、今川義元終焉の「桶狭間古戦場跡」以外にも「大高城跡」「鷲津砦」「善照寺砦」など貴重な歴史遺産が公園となって現存している。この地域全体を有機的に結びつけて、この「戦場」のストーリーをもっとアピール(歴史学習や観光)すべきと考える。

「桶狭間」のストーリーは、歴史書や小説によっていろいろ語られるが、私の認識を1枚のポンチ絵にしてみた。真偽のほどは読者の判断にお任せするが、絵(マップ)にするといかにも尤もらしく見えると思いますがいかがでしょう。
◆今川義元は大軍(2万5千人とも言われる)を率いて京へ向かった。尾張など蹴散らす勢いで。
◆今川方の前線基地として、鳴海城と大高場には今川の武将が城を守っていた。
◆織田側は、大高城の周りに「鷲津砦」「丸根砦」を、鳴海城の周囲に「丹下砦」「善照寺砦」を築いて攻め立てた。
◆孤立した大高城には、今川の先鋒「家康隊」が援軍に向かい、食料(兵糧)も運び入れた。
◆今川軍はちょうど昼時だったので長い隊列のまま休憩し昼食を食べていた。(酒も出たという)
◆織田軍は川の対岸に陣地を造って渡河を容易にした(橋頭堡という。中嶋砦がそれである。)
◆信長は10分の1の兵力で、今川隊列の先頭を急襲した。急に雨が降り出したともいう。
◆あわてた今川側は総崩れとなり、とうとう大将の義元までが討たれてしまった。
◆大高城に居た家康は、岡崎城へと引き上げた。これで今川の人質状態が終わった。
「桶狭間の戦い」は、信長の天下取りの端緒ともなった戦いであるとともに、家康のデビュー戦でもある。戦国の歴史の中でも最も重要なエポックだと思う。信長が鉄砲を導入した「長篠の合戦」や、家康の天下取りに繋がった「関ヶ原の戦い」に匹敵する歴史の大転換点であった。
桶狭間の地には、今川義元終焉の「桶狭間古戦場跡」以外にも「大高城跡」「鷲津砦」「善照寺砦」など貴重な歴史遺産が公園となって現存している。この地域全体を有機的に結びつけて、この「戦場」のストーリーをもっとアピール(歴史学習や観光)すべきと考える。

「桶狭間」のストーリーは、歴史書や小説によっていろいろ語られるが、私の認識を1枚のポンチ絵にしてみた。真偽のほどは読者の判断にお任せするが、絵(マップ)にするといかにも尤もらしく見えると思いますがいかがでしょう。
◆今川義元は大軍(2万5千人とも言われる)を率いて京へ向かった。尾張など蹴散らす勢いで。
◆今川方の前線基地として、鳴海城と大高場には今川の武将が城を守っていた。
◆織田側は、大高城の周りに「鷲津砦」「丸根砦」を、鳴海城の周囲に「丹下砦」「善照寺砦」を築いて攻め立てた。
◆孤立した大高城には、今川の先鋒「家康隊」が援軍に向かい、食料(兵糧)も運び入れた。
◆今川軍はちょうど昼時だったので長い隊列のまま休憩し昼食を食べていた。(酒も出たという)
◆織田軍は川の対岸に陣地を造って渡河を容易にした(橋頭堡という。中嶋砦がそれである。)
◆信長は10分の1の兵力で、今川隊列の先頭を急襲した。急に雨が降り出したともいう。
◆あわてた今川側は総崩れとなり、とうとう大将の義元までが討たれてしまった。
◆大高城に居た家康は、岡崎城へと引き上げた。これで今川の人質状態が終わった。
町並みに残る「小物たち」
美濃の町並みの主役は「うだつ」であるが、脇役の「小物」にも面白いものがある。「すぎ玉」は、酒屋のシンボルである。その年の新しいお酒が出来上がると、まだ緑色の「すぎ玉」を軒に吊るす。それが合図となって、新酒を求めて人々が買いに来るという。
「矢来」というのは、竹などを編んで作った仮の囲いである。「やらい」は、追いやること。「犬矢来」は、軒下の空間に犬などが居つかないように防御したものであろう。腰板に、変わった形の「梯子」が架かっていた。先が「刺股」のようになっている。火事などのときに使うものと思われる。

建物沿い、道路脇に水が流れる側溝がある。もちろん排水にも使われるが、常時水も流れているのであろう。生活用水としても使われるが、いざ火事のときに役に立つ。「うだつ」もそうだが、木造建築の立ち並ぶ宿場町にとっては「火事」が最も怖い災いである。「馬つなぎ石」も置いてあった。
「屋根神様」については、以前から注目している(2017・11・27の「岐阜・河原町」参照)。美濃にも立派なものがたくさんある。現在は高台に町があるので、洪水の危険性は薄いが、かつては川湊近くに商家が集まっていたという。高台に移転したときもそのまま祠を屋根に残したものであろう。

「矢来」というのは、竹などを編んで作った仮の囲いである。「やらい」は、追いやること。「犬矢来」は、軒下の空間に犬などが居つかないように防御したものであろう。腰板に、変わった形の「梯子」が架かっていた。先が「刺股」のようになっている。火事などのときに使うものと思われる。

建物沿い、道路脇に水が流れる側溝がある。もちろん排水にも使われるが、常時水も流れているのであろう。生活用水としても使われるが、いざ火事のときに役に立つ。「うだつ」もそうだが、木造建築の立ち並ぶ宿場町にとっては「火事」が最も怖い災いである。「馬つなぎ石」も置いてあった。
「屋根神様」については、以前から注目している(2017・11・27の「岐阜・河原町」参照)。美濃にも立派なものがたくさんある。現在は高台に町があるので、洪水の危険性は薄いが、かつては川湊近くに商家が集まっていたという。高台に移転したときもそのまま祠を屋根に残したものであろう。

うだつの上がる町 美濃
「うだつ」とは延焼防止のための防火壁のことだが、「うだつが上がらない」という慣用句としても知られている。宿場町などの大きな商家などに目立つので、このブログでも何回か取り上げてきた。有松宿(2015・5・21)、中津川宿(2016・12・31)、太田宿(2017・1・23)、鵜沼宿(2021・12・3)を参照願いたい。
美濃の宿場町は「うだつの上がる町並み」を標榜している。小倉山城の麓に二筋の古い町並みがあり、うだつを持つ商家が軒を並べている。飛騨高山に城を築き、街並みも造り上げた戦国時代の武将・金森氏が、美濃にもお城と町並みをつくり上げたのである。

中山道加納宿(岐阜市)から、郡上八幡へ向かう道を「飛騨街道」という。さらに北へ進んで、白山信仰ゆかりの里「石徹白(いとしろ)」へ向かう祈りの道でもある。美濃は陸路だけでなく、舟便の上有知湊(2017・9・23参照)もある、交通の要衝であった。豪商は競ってうだつを上げたのであろう。
その中で一軒風変わりな建物があった。屋根が「むくり」になっている。神社の屋根は窪んだ「そり」を持つが、「むくり」は逆に膨らみをもつ。造り酒屋の蔵元で、「百春」と記された暖簾が架かっている。酒屋らしい「すぎ玉」、「屋根神様」、「犬矢来」などもあって興味深い建物である。


美濃の宿場町は「うだつの上がる町並み」を標榜している。小倉山城の麓に二筋の古い町並みがあり、うだつを持つ商家が軒を並べている。飛騨高山に城を築き、街並みも造り上げた戦国時代の武将・金森氏が、美濃にもお城と町並みをつくり上げたのである。

中山道加納宿(岐阜市)から、郡上八幡へ向かう道を「飛騨街道」という。さらに北へ進んで、白山信仰ゆかりの里「石徹白(いとしろ)」へ向かう祈りの道でもある。美濃は陸路だけでなく、舟便の上有知湊(2017・9・23参照)もある、交通の要衝であった。豪商は競ってうだつを上げたのであろう。
その中で一軒風変わりな建物があった。屋根が「むくり」になっている。神社の屋根は窪んだ「そり」を持つが、「むくり」は逆に膨らみをもつ。造り酒屋の蔵元で、「百春」と記された暖簾が架かっている。酒屋らしい「すぎ玉」、「屋根神様」、「犬矢来」などもあって興味深い建物である。


中電井ノ面水力発電所と願念寺
こんな小さな発電所を大切に使っているなぁと感心するとともに、最近見直されている「小水力発電所」の「先見」とも言えるかもしれないとも思う。美濃橋近くの「井ノ面水力発電所」、県道脇の法面に張り付くように設置されている・
運転開始は大正3年(1914)、板取川電気(株)が開発した。上流の長良川発電所の電気が全て名古屋へ送られてしまうので、地元の文化発展のために開始したという。現在も現役で、中部電力が運営している。カバーの中を覗くと、豊富な水が流れ落ちている。

美濃市の「うだつの上がる町並み」の一角に浄土真宗の寺院がある。「竹林山・願念寺」という。元は文永9年、三河国矢作に建立されたが、文明5年にこの地に移されたという。寺宝として、円空作の「聖観世音菩薩像」を所蔵している。
山門の前に親鸞聖人御舊跡」と記した石碑が立っている。親鸞聖人は布教のため東国を行脚したが、この地にも訪れたのであろう。境内で松の木の剪定を行っていた。マツは日当たりを好むので、枝の整理をするとともに、古葉むしりをすることにより健全な生育を促すのである。


運転開始は大正3年(1914)、板取川電気(株)が開発した。上流の長良川発電所の電気が全て名古屋へ送られてしまうので、地元の文化発展のために開始したという。現在も現役で、中部電力が運営している。カバーの中を覗くと、豊富な水が流れ落ちている。

美濃市の「うだつの上がる町並み」の一角に浄土真宗の寺院がある。「竹林山・願念寺」という。元は文永9年、三河国矢作に建立されたが、文明5年にこの地に移されたという。寺宝として、円空作の「聖観世音菩薩像」を所蔵している。
山門の前に親鸞聖人御舊跡」と記した石碑が立っている。親鸞聖人は布教のため東国を行脚したが、この地にも訪れたのであろう。境内で松の木の剪定を行っていた。マツは日当たりを好むので、枝の整理をするとともに、古葉むしりをすることにより健全な生育を促すのである。


長良川発電所
明治43年(1910)という年号は、鶴舞公園が開園して「第10回関西府県連合共進会」が開催された年として私の頭に入っている。「長良川発電所」は同年3月15日に運転を開始したという。共進会が翌日の3月16日から6月13日までの会期であることと符合する。
共進会というビッグイベントでは、そのために鶴舞公園まで市電が引かれたというし、会場は不夜城のごとくイルミネーションで飾られたという。これに合わせて新たな電源開発を必要としたのであろう。発電所の出力は4200キロワット、木曽川での発電所建設に先駆けての事業であった。

長良川発電所の建設を最初に計画したのは、旧岩村藩の士族である。琵琶湖疏水を利用した蹴上発電所(京都)を見学して触発されたという。流域の各地を調査した結果、武儀郡洲原の立花の地点が最も有利だと考えた。母野辺りから取水して、約4.5km下流に送る「水路式発電」である。
当初は名古屋に送電していたが、現在は美濃市や郡上市の電力を賄っている。建設当時の煉瓦造りの建物や門柱が、今もそのまま活用されている。構内にドイツの「フォイト製・前口フランシス水車」や、「シーメンス製・発電機」が保存・展示されている。

共進会というビッグイベントでは、そのために鶴舞公園まで市電が引かれたというし、会場は不夜城のごとくイルミネーションで飾られたという。これに合わせて新たな電源開発を必要としたのであろう。発電所の出力は4200キロワット、木曽川での発電所建設に先駆けての事業であった。

長良川発電所の建設を最初に計画したのは、旧岩村藩の士族である。琵琶湖疏水を利用した蹴上発電所(京都)を見学して触発されたという。流域の各地を調査した結果、武儀郡洲原の立花の地点が最も有利だと考えた。母野辺りから取水して、約4.5km下流に送る「水路式発電」である。
当初は名古屋に送電していたが、現在は美濃市や郡上市の電力を賄っている。建設当時の煉瓦造りの建物や門柱が、今もそのまま活用されている。構内にドイツの「フォイト製・前口フランシス水車」や、「シーメンス製・発電機」が保存・展示されている。
