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旧中埜家住宅

 ♪♪・・・知多の半田は蔵のまち 酒蔵・酢の蔵・木綿蔵・・・♪♪と歌う「半田音頭」というのがあったと思うのだけれど、今は謳わないのだろうか? ネットで探しても出てこない。ただ、この町が江戸時代から醸造や繊維など、海運を活かして発展してきたことは確かである。
 中埜半六家は、江戸から明治にかけて海運業や醸造業で富を築いた。ミツカン酢を創業した中埜又左衛門家とは同族で、ともに半田運河一帯の整備に取り組み、近世以降の半田の発展の原動力となった。今も、運河沿いに建ち並ぶ蔵や博物館、屋敷や庭園は半田の魅力を発信している。

旧中埜住宅G

 旧中埜家住宅は、第10代半六が明治44年(1911)に別荘として建てたものである。欧州留学中に見た西洋の住宅の美しさに心惹かれて、それを模して建築したものと言われている。デザインは「ハーフティンバー」と言われる洋式、柱や梁の間に白壁があるのが特徴である。
 設計は名古屋高等工業学校教授の鈴木禎次、明治後期から昭和初期にかけてこの地方中心に活躍した名建築家である。鶴舞公園の噴水塔や奏楽堂も手掛けた。名工大の入り口近くに、彼を顕彰する記念碑が立っている。

旧中埜住宅H

半田赤レンガ建物 その2

 この建物については、すでに平成25年(2013・9・23)にご報告した。ただし、その時はまだ改修工事の前で、平成26・27年に耐震補強などが施された。平成16年に登録文化財、21年に近代産業遺産、26年には半田市指定第1号の景観重要建造物に指定されている。
 赤レンガ建物は、明治31年(1898)に「丸三麦酒」(のちのカブトビール)の製造工場として誕生した。戦時中は中島飛行機の衣料倉庫として使用された。戦後は日本初の「コーンスターチ」を作る工場となった。すなわち、この地は「コーンスターチ発祥の地」でもある。

赤レンガ建物2マップ

 平成になり工場が稼働停止して取り壊されることとなった。しかし、建物は300万個(東京駅に次いで2位)ものレンガが使われている貴重な遺産であり、保存の機運が高まった。平成27年に改修が終わってからは、クラブハウスや企画展示室、カフェ・ビアホール・ショップなどとして使われている。
 駐車場からは、名古屋停車場(現名古屋駅)前に建っていた広告塔が目に入る。建物の裏側に回ると戦中に機関銃掃射により傷ついたレンガ壁を見ることができる。前面の平屋棟は、ヨーロッパでよく見る木骨造り(ハーフティンバー)になっている。
(下の写真は、2021・3・12の「木骨造りの家」より)

赤レンガ建物2G

佐久間ダム

 佐久間ダムの説明をするには、ダム近くの「電力館」に掲げられている「説明看板」と「新聞記事」をお借りするのが手っ取り早い。看板には詳細な構造図が掲載されており、新聞ではこの事業に対する関係者の意気込みが伝わってくる。以下記事の抜粋・・・
 「日本一の佐久間ダム・・・ダムの高さは約150m、これまでの最高・木曽川三浦ダムの2倍、丸ビルの5倍である。長さは270mでその上部は幅4mの道路となる。堰き止める水の総容量は3億3千万立方m、大きな人口湖となる。面積は諏訪湖の2倍、貯水量は琵琶湖の2分の1」

佐久間ダムH

 「この水を直径7m、1.15kmのトンネルで発電所に導き、145mの落差を利用して最大36万kwを発電する。総工費250億円、アメリカ式の大型土木機械を活用して2年半の短期で完成させる。昭和31年(1956)には本格送電を始める」
 私が小学生のころ、「佐久間ダム」というニュースは「凄い」という印象だった。その後の半世紀の間にさらに巨大なダムが建設されたが、佐久間ダムは今でも日本第8位の大きさを誇っている。今まで近くを通りながら一度も見たことのない巨大事業の足跡を、今回初めて辿ることができた。

佐久間ダムG

季節通信220柳絮


佐久間の中部(なかべ)橋

 浜松市は平成の市町村合併により市域面積が広がり、全国では高山市に次いで第2位である。約1560平方km、名古屋市327平方kmの約5倍である。因みに愛知県で一番広いのは、やはり稲武や小原を合併した豊田市で、26位・約920平方kmである。
 天竜川を遡った愛知・長野との県境地域は「北遠」と呼ぶ。遠州の北部という意味であろう。天竜・春野・龍山・佐久間・水窪の5地区を指す。その中で「佐久間地区」は、人口2800人ほどの村落である。地区の中央を天竜川が流れ、町は右岸側と左岸側に二分されている。

中部橋G

 この地域では天竜川が北向きに流れているので、右岸が東で左岸は西ということになる。右岸にはJR飯田線が通り、中部天竜駅や佐久間小学校がある。左岸には国道473号が走り、消防署や郵便局が建っている。左右の町を結ぶのは、「中部橋」という人道橋である。
 中部と書いて「なかべ」と読む。地元では親しげに「なかっぺ橋」と呼ぶ。昭和12年完成、長さ約170m、幅1.6mの「鋼トラスで補剛された吊り橋」である。もう一本、県道291号に「中部大橋」が架かっている。赤い二連のアーチ橋である。

中部橋マップ


佐久間の原田橋

 天竜川は、佐久間ダムの下流で大きく逆もどりし、北に向かって流れている。そのV字の部分に、支流の相川が合流している。JR飯田線は下川合駅と中部天竜駅が右岸にあり、国道473号線は左岸を走っている。国道が天竜川を跨ぐのが「原田橋」である。
 現在の原田橋は3代目で、令和2年開通の真新しい橋である。橋長284m、幅員は8mの2車線である。初代は大正4年(1914)に架設された木製補剛桁の吊り橋であった。長さ約112m、幅員は2.4m。地元出身の原田氏の寄付によるものである。

原田橋マップ

 昭和31年(1956)、佐久間ダム建設のため資材運搬が必要となり、幅の広い橋に架け替えとなった。2代目は、鉄筋コンクリート補剛桁の吊り橋で、幅は5.5m、長さは約139mである。活荷重は9トンで設計されていた。
 この2代目の橋は、平成27年(2015)1月に天竜川右岸で発生した土砂崩れにより落橋してしまった。現地で見ると、山の高い位置から崩落が起こったようである。緑のない地肌は、モルタルや金網で保護されている。古い橋台や親柱の銘板は残されたままになっている。

原田橋G

季節通信219青もみじ


浦川キャンプ場と滝口の橋

 天竜川の支流「相川」は、浦川あたりで大きくU字型に蛇行している。山裾が半島のように相川に向かってせり出している。半島の西側に広い河川敷があり、その中に半月形の島がある。ここはキャンプ場になっていて、そこへ通ずる吊り橋が2本(1号・2号)架かっている。
 吊橋は、いずれも人道橋で昭和45(1970)年完成。自転車は通行できるが、バイクは不可である。1号橋は長さ96m、幅員は1.9m、床は板張りである。2号橋は長さ74m、幅は同じく1.9mである。しかし、床面は縞鋼板張りと異なっている。

滝口マップ2

 航空写真を見ると、半島部分の中央に野球場が見える。地域の人たちのスポーツの殿堂であろう。相川の両岸に集落があるので、吊り橋は両側の行き来にも使われる。キャンプ場には広い草地があり、テントを張ったりキャンプファイヤーをするのに使われる。樹林の中に丸太小屋もある。
 集落の中央を飯田線が通っている。偶然、鉄橋を渡る電車を撮影することができた。駅構内に貼られている時刻表を見ると、1~2時間に1本なので、これは幸運なことなのだろう。山並みに深い「鞍部」があり、説明看板によれば、ここに中央構造線が走っているという。

滝口マップ



JR飯田線・浦川駅

 最近はとんとご無沙汰ですが、飯田線はよく利用しました。妻の実家が温田駅近くにあり、里帰りや夏の避暑のために子供を連れて乗ったのです。その頃は急行が何本かあり、車内販売も廻ってきました。新城から先は山岳地帯なので、トンネルと橋梁の連続です。とにかく景色の良い路線です。
 飯田線が開通したのは明治30年、全通したのは昭和12年のことです。起点の豊橋から終点の辰野まで約196km、その間に94の駅があります。住民にとって重要な交通機関なので、各集落に1つの駅ができました。駅と駅の平均距離は2.1kmと短く、市街地の路線並みです。

 この路線は連結していたものの、もともとは4つの私鉄に分かれていました。豊川鉄道・鳳来寺鉄道・三信鉄道・伊那電気鐵道です。天竜川は早くから電源開発が行われたため、その資材を運ぶのに利用されました。第二次大戦中に国有化が図られ、一体的な運営が行われるようになりました。
 浦川の町は、合併により浜松市に属し、天竜区佐久間町浦川というのが正式名称です。この集落は、かつては木材生産で活気があり、料理屋・映画館・喫茶店やビリーヤード場までが並んでいたそうです。今は静かな住宅地であり、浦川駅の乗客も1日100人に満たないそうです。

浦川マップ

大垣・水門川の橋 その7

26 高  橋: 昭和36年(1961)・・・26の橋の最後。県道18号・大垣~一宮線に架かっている。           
                       橋の中央に芭蕉の俳句が掲げられている。

26高橋G

 今回は、水門川をたどって26の橋を訪ね歩いた。大垣にはもう一本の散歩道がある。松尾芭蕉の句碑のある道で、やはり駅近くの牛屋橋を起点に、終点も同じ高橋である。
 高橋は、芭蕉の「奥の細道」むすびの地である。元禄2年(1689)、門人・河合曾良を伴って江戸を出発した。東北・北陸を経て、大垣のこの地で俳諧・紀行の旅を終える。150日間、600里(2400km)の長旅であった。
 芭蕉はこの後、「伊勢の遷宮をおがまんとまた舟に乗り」、船町・住吉の湊から水門川を桑名まで下ったのである。奥の細道むすびの句は「蛤のふたみにわかれて行く秋ぞ」である。

26高橋H


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 私ども「中部復建」は、戦後から一貫して土木施設の計画設計に携わってきました。地域の皆さんに、より身近に土木を感じて頂きたく先人が残してくれた土木遺産等を訪ね歩き≪中部の『土木文化』見てある記≫として、皆さんに紹介していきたいと思い、このブログを発信する事としました。  

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プロフィール

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Author:FC2USER480348EQK
森 田 高 尚
昭和21年6月 半田市生まれ
平成12年 東山植物園長
平成17年 名古屋市緑地部長
平成19年 中電ブルーボネット園長
平成24年 中部復建技術顧問
技術士:(建設部門・環境部門)
公園管理運営士 
著書:『園長さんのガーデンライフ』
監修:『世界一うつくしい植物園』
 (著者:木谷美咲)
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