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旧中埜家住宅
♪♪・・・知多の半田は蔵のまち 酒蔵・酢の蔵・木綿蔵・・・♪♪と歌う「半田音頭」というのがあったと思うのだけれど、今は謳わないのだろうか? ネットで探しても出てこない。ただ、この町が江戸時代から醸造や繊維など、海運を活かして発展してきたことは確かである。
中埜半六家は、江戸から明治にかけて海運業や醸造業で富を築いた。ミツカン酢を創業した中埜又左衛門家とは同族で、ともに半田運河一帯の整備に取り組み、近世以降の半田の発展の原動力となった。今も、運河沿いに建ち並ぶ蔵や博物館、屋敷や庭園は半田の魅力を発信している。

旧中埜家住宅は、第10代半六が明治44年(1911)に別荘として建てたものである。欧州留学中に見た西洋の住宅の美しさに心惹かれて、それを模して建築したものと言われている。デザインは「ハーフティンバー」と言われる洋式、柱や梁の間に白壁があるのが特徴である。
設計は名古屋高等工業学校教授の鈴木禎次、明治後期から昭和初期にかけてこの地方中心に活躍した名建築家である。鶴舞公園の噴水塔や奏楽堂も手掛けた。名工大の入り口近くに、彼を顕彰する記念碑が立っている。

中埜半六家は、江戸から明治にかけて海運業や醸造業で富を築いた。ミツカン酢を創業した中埜又左衛門家とは同族で、ともに半田運河一帯の整備に取り組み、近世以降の半田の発展の原動力となった。今も、運河沿いに建ち並ぶ蔵や博物館、屋敷や庭園は半田の魅力を発信している。

旧中埜家住宅は、第10代半六が明治44年(1911)に別荘として建てたものである。欧州留学中に見た西洋の住宅の美しさに心惹かれて、それを模して建築したものと言われている。デザインは「ハーフティンバー」と言われる洋式、柱や梁の間に白壁があるのが特徴である。
設計は名古屋高等工業学校教授の鈴木禎次、明治後期から昭和初期にかけてこの地方中心に活躍した名建築家である。鶴舞公園の噴水塔や奏楽堂も手掛けた。名工大の入り口近くに、彼を顕彰する記念碑が立っている。
