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半田運河の散策路と「蔵のかけ橋」
知多半島には、豊かな地下水が流れている。そのため古くから酒や酢、醤油などの醸造業が発達した。その繁栄を加速させたのが「半田運河」である。灘などの上方に比べて、江戸への輸送に地の利があった。尾張藩の後押しもあって、廻船業が栄えたのである。
運河の左岸・右岸に黒壁の蔵が建ち並んでいる。上流は「中埜酒造」であり、下流には「ミツカン酢」がある。運河沿いに散策路が整備されていて、歴史を感じながら歩くことができる。運河が交叉する地点には橋が架かっていて「蔵のかけ橋」と名付けられている。

橋からは、ミツカン酢の本社ビルと工場の建物を再利用した「ミツカン・ミュージアム」が見える。半田の酢は、ミツカン創業者の中埜又左衛門が発明した「粕酢」である。それまで捨てられていた酒粕を利用したもので、江戸の「握りずし(早すし)」ブームを巻き起こす元となった。
もうひとつ、醸造の過程で生産される副産物に「たまり」がある。これは、豆みそを熟成するときに、樽の底から滲み出る液体である。醤油とは全く生産方法が異なるもので、色が濃くまったりしてうまみが強い。とくに刺し身に合うので「さしみ醤油」とも呼ばれている。

運河の左岸・右岸に黒壁の蔵が建ち並んでいる。上流は「中埜酒造」であり、下流には「ミツカン酢」がある。運河沿いに散策路が整備されていて、歴史を感じながら歩くことができる。運河が交叉する地点には橋が架かっていて「蔵のかけ橋」と名付けられている。

橋からは、ミツカン酢の本社ビルと工場の建物を再利用した「ミツカン・ミュージアム」が見える。半田の酢は、ミツカン創業者の中埜又左衛門が発明した「粕酢」である。それまで捨てられていた酒粕を利用したもので、江戸の「握りずし(早すし)」ブームを巻き起こす元となった。
もうひとつ、醸造の過程で生産される副産物に「たまり」がある。これは、豆みそを熟成するときに、樽の底から滲み出る液体である。醤油とは全く生産方法が異なるもので、色が濃くまったりしてうまみが強い。とくに刺し身に合うので「さしみ醤油」とも呼ばれている。

旧中埜半六邸と庭園
半田運河は、阿久比川に並行して流れて衣浦湾に注いでいる。運河の西岸、JR半田駅近くに中埜半六のお屋敷があった。現在は市民団体・特定非営利活動法人「半六コラボ」が管理運営し、レストランや貸部屋として利用されている。
建物は明治22年(1889)に築造された。母屋を始め茶室や9棟の蔵などが建ち並んでいた。昭和40年代には、大相撲名古屋場所において二所ノ関部屋の宿舎に当てがわれ、横綱・大鵬も宿泊していたという。広い庭には土俵もあったのだろう。

母屋の南には回遊式の日本庭園があり、現在もその姿を留めている。中央に池があり、灯籠や大きな庭石が据えられている。池は運河と繋がっていて、潮の干満により水面が上下したという。いわゆる「潮入りの庭」であった。
お屋敷の北側に、中埜酒造の本社工場がある。狭い路地を挟んで黒い板壁の建物が並んでいて、「清酒・国盛」の看板も架かっている。建物の一部は「酒の文化館」になっていて、伝統的な酒造りや古い道具類を観ることができる。

建物は明治22年(1889)に築造された。母屋を始め茶室や9棟の蔵などが建ち並んでいた。昭和40年代には、大相撲名古屋場所において二所ノ関部屋の宿舎に当てがわれ、横綱・大鵬も宿泊していたという。広い庭には土俵もあったのだろう。

母屋の南には回遊式の日本庭園があり、現在もその姿を留めている。中央に池があり、灯籠や大きな庭石が据えられている。池は運河と繋がっていて、潮の干満により水面が上下したという。いわゆる「潮入りの庭」であった。
お屋敷の北側に、中埜酒造の本社工場がある。狭い路地を挟んで黒い板壁の建物が並んでいて、「清酒・国盛」の看板も架かっている。建物の一部は「酒の文化館」になっていて、伝統的な酒造りや古い道具類を観ることができる。
