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春日井の三ツ又公園と落合公園
春日井市の中央部に「三ツ又ふれあい公園」という公園がある。ここは、東部丘陵地から流れる八田川が合流する地点である。途中、大池緑地や落合公園のため池からも取水している。川沿いに2本の緑道が整備されていて、西側を「みずすまし緑道」、東側は「ふれあい緑道」という。
三ツ又公園に面白いモニュメントがある。「フォリー柳とカエル」と呼ばれている。小野東風の逸話を表現していて、手すりなどにカエルの彫刻がついている。「フォリー」とは、役割りのない装飾だけの建物をいう。ただ、右半分はローラー滑り台になっていて、遊具の役目は果たしている。

落合公園は約25haの総合公園である。池を中心に景観が美しく、「日本の都市公園100選」にも選ばれている。ここには、さらに大きな「フォリー・水の塔」が建っている。エレベーターも備えられていて、最上階からは公園全体の景色を見ることができる。
4月の調査であったが、すでに伸び始めた雑草の草刈りが始まっていた。三ツ又公園では、吊り橋の「むつみ橋」周辺の川の土手をブッシュカッターで、落合公園では、講演会や展示会の出来る「グリーンパレス」近くの芝生を自走式の芝刈り機で作業をしていた。


三ツ又公園に面白いモニュメントがある。「フォリー柳とカエル」と呼ばれている。小野東風の逸話を表現していて、手すりなどにカエルの彫刻がついている。「フォリー」とは、役割りのない装飾だけの建物をいう。ただ、右半分はローラー滑り台になっていて、遊具の役目は果たしている。

落合公園は約25haの総合公園である。池を中心に景観が美しく、「日本の都市公園100選」にも選ばれている。ここには、さらに大きな「フォリー・水の塔」が建っている。エレベーターも備えられていて、最上階からは公園全体の景色を見ることができる。
4月の調査であったが、すでに伸び始めた雑草の草刈りが始まっていた。三ツ又公園では、吊り橋の「むつみ橋」周辺の川の土手をブッシュカッターで、落合公園では、講演会や展示会の出来る「グリーンパレス」近くの芝生を自走式の芝刈り機で作業をしていた。


半田・岩滑の新美南吉記念館
半田と阿久比の境界に矢勝川という小さな川が流れている。このあたりの地名を岩滑(やなべ)といい、「ごんぎつね」で有名な新美南吉の生まれ故郷である。この矢勝川は、近年、300万本の彼岸花が咲く土手として人気を集め、9月下旬から10月はじめに多くの行楽客が訪れる名所である。
南吉の生家は、名鉄河和線・半田口駅の最寄りである。彼の母校でもあり、代用教員として教鞭もとった岩滑小学校や、近所の友だちと遊んだ光蓮寺も家の近くにある。童話の舞台となった森や竹藪、畑などもこの一帯に残っている。

南吉が学生時代から教員時代に執筆した童話や小説は、国語の教科書に採用されるなど人々に愛され続けている。「新美南吉記念館」は、自筆原稿や日記・手紙などを収集・展示する文学館である。常設・企画の展示室や親子で絵本を楽しめる図書室などが整っている。
建物が大変にユニークである。緩いカーブをもつ形状で半地下に潜っている。屋根には芝生や低木が植えられ、人が登ることもできる。屋内の構造も曲線を多用して、柔らかいイメージを演出している。集会室では、ヒガンバナを管理している「矢勝川の環境を守る会」の会合も開かれるという。

南吉の生家は、名鉄河和線・半田口駅の最寄りである。彼の母校でもあり、代用教員として教鞭もとった岩滑小学校や、近所の友だちと遊んだ光蓮寺も家の近くにある。童話の舞台となった森や竹藪、畑などもこの一帯に残っている。

南吉が学生時代から教員時代に執筆した童話や小説は、国語の教科書に採用されるなど人々に愛され続けている。「新美南吉記念館」は、自筆原稿や日記・手紙などを収集・展示する文学館である。常設・企画の展示室や親子で絵本を楽しめる図書室などが整っている。
建物が大変にユニークである。緩いカーブをもつ形状で半地下に潜っている。屋根には芝生や低木が植えられ、人が登ることもできる。屋内の構造も曲線を多用して、柔らかいイメージを演出している。集会室では、ヒガンバナを管理している「矢勝川の環境を守る会」の会合も開かれるという。

半田の常楽寺
名鉄河和線・成岩駅近くの常楽寺は、文明16年(1484)に開基された古刹である。尾張初代藩主・徳川義直公から、「浄土宗西山派の知多での総本山」とのお墨付きを得た大寺院である。かつては数多くの塔頭が建ち並んでいたが、今でも遣浄院など4つのお寺が残っている。
第8世の上人が家康の従兄弟だったこともあり、また、桶狭間の戦いや本能寺の変で逃避する折に当寺に立ち寄っていることなどから、今も徳川家とは深い縁をもつ。本堂前の賽銭箱にも、大きな三つ葉葵の紋所が刻まれている。

私の父の菩提寺でもあり、子供のころからお盆やお彼岸にお参りをした。伽藍は大正13年に火災に遭い焼失したが、当時のこととて木造で再建されている。本堂の丸柱は太いケヤキで、重厚な雰囲気を醸し出している。夏でもとにかく涼しいのである。
山門も昭和62年(1987)に再建された。仁王門であり、向かって左に廣目天、右に増長天が厳めしい顔で身構えている。足の下には「邪鬼」が踏んづけられている。「邪鬼」とはたたりをする悪神、妖怪のことである。哀れでもあり、ユーモラスな姿でもある。


第8世の上人が家康の従兄弟だったこともあり、また、桶狭間の戦いや本能寺の変で逃避する折に当寺に立ち寄っていることなどから、今も徳川家とは深い縁をもつ。本堂前の賽銭箱にも、大きな三つ葉葵の紋所が刻まれている。

私の父の菩提寺でもあり、子供のころからお盆やお彼岸にお参りをした。伽藍は大正13年に火災に遭い焼失したが、当時のこととて木造で再建されている。本堂の丸柱は太いケヤキで、重厚な雰囲気を醸し出している。夏でもとにかく涼しいのである。
山門も昭和62年(1987)に再建された。仁王門であり、向かって左に廣目天、右に増長天が厳めしい顔で身構えている。足の下には「邪鬼」が踏んづけられている。「邪鬼」とはたたりをする悪神、妖怪のことである。哀れでもあり、ユーモラスな姿でもある。


亀崎「潮風の丘緑地の橋」
半田の北部に位置する亀崎は、衣浦湾に突き出した「神の岬」を語源とする。今もその先端に「神前(かみさき)神社」が鎮座している。この神社の祭礼が有名な「潮干祭り」である。豪壮な山車を海岸の砂浜に「曳き下ろす」のが特徴である。今は、国の重要文化財であり世界文化遺産でもある。
古図を見ると、神社周辺は小高い丘陵となっていて、海岸沿いの集落に向かって坂道が下っている。海岸沿いの建物は、堤防を兼ねた石垣の上に建てられていた。私の友人の家もこのひとつで、窓から吊糸を垂れてハゼ釣りをしたと言う。

この風景は伊勢湾台風のために壊滅し、その後に高い堤防ができた。そのため、祭礼クライマックスの曳き下しができなくなってしまった。平成5年になってようやく「ゲート付きの堤防」と、「人口海浜」が完成し、曳下ろしを復活することができたのである。
尾張三社のあたりは、浅い砂浜が広がり絶好の海水浴場や潮干狩りの場だった。現在は埋め立て地に変貌して、多くの工場が立地している。その中ほどに「潮風緑地」があり、運河に「潮風橋」が架かっている。パイプを溶接して三角トラスとしたユニークな人道橋である。


古図を見ると、神社周辺は小高い丘陵となっていて、海岸沿いの集落に向かって坂道が下っている。海岸沿いの建物は、堤防を兼ねた石垣の上に建てられていた。私の友人の家もこのひとつで、窓から吊糸を垂れてハゼ釣りをしたと言う。

この風景は伊勢湾台風のために壊滅し、その後に高い堤防ができた。そのため、祭礼クライマックスの曳き下しができなくなってしまった。平成5年になってようやく「ゲート付きの堤防」と、「人口海浜」が完成し、曳下ろしを復活することができたのである。
尾張三社のあたりは、浅い砂浜が広がり絶好の海水浴場や潮干狩りの場だった。現在は埋め立て地に変貌して、多くの工場が立地している。その中ほどに「潮風緑地」があり、運河に「潮風橋」が架かっている。パイプを溶接して三角トラスとしたユニークな人道橋である。


半田運河の散策路と「蔵のかけ橋」
知多半島には、豊かな地下水が流れている。そのため古くから酒や酢、醤油などの醸造業が発達した。その繁栄を加速させたのが「半田運河」である。灘などの上方に比べて、江戸への輸送に地の利があった。尾張藩の後押しもあって、廻船業が栄えたのである。
運河の左岸・右岸に黒壁の蔵が建ち並んでいる。上流は「中埜酒造」であり、下流には「ミツカン酢」がある。運河沿いに散策路が整備されていて、歴史を感じながら歩くことができる。運河が交叉する地点には橋が架かっていて「蔵のかけ橋」と名付けられている。

橋からは、ミツカン酢の本社ビルと工場の建物を再利用した「ミツカン・ミュージアム」が見える。半田の酢は、ミツカン創業者の中埜又左衛門が発明した「粕酢」である。それまで捨てられていた酒粕を利用したもので、江戸の「握りずし(早すし)」ブームを巻き起こす元となった。
もうひとつ、醸造の過程で生産される副産物に「たまり」がある。これは、豆みそを熟成するときに、樽の底から滲み出る液体である。醤油とは全く生産方法が異なるもので、色が濃くまったりしてうまみが強い。とくに刺し身に合うので「さしみ醤油」とも呼ばれている。

運河の左岸・右岸に黒壁の蔵が建ち並んでいる。上流は「中埜酒造」であり、下流には「ミツカン酢」がある。運河沿いに散策路が整備されていて、歴史を感じながら歩くことができる。運河が交叉する地点には橋が架かっていて「蔵のかけ橋」と名付けられている。

橋からは、ミツカン酢の本社ビルと工場の建物を再利用した「ミツカン・ミュージアム」が見える。半田の酢は、ミツカン創業者の中埜又左衛門が発明した「粕酢」である。それまで捨てられていた酒粕を利用したもので、江戸の「握りずし(早すし)」ブームを巻き起こす元となった。
もうひとつ、醸造の過程で生産される副産物に「たまり」がある。これは、豆みそを熟成するときに、樽の底から滲み出る液体である。醤油とは全く生産方法が異なるもので、色が濃くまったりしてうまみが強い。とくに刺し身に合うので「さしみ醤油」とも呼ばれている。

旧中埜半六邸と庭園
半田運河は、阿久比川に並行して流れて衣浦湾に注いでいる。運河の西岸、JR半田駅近くに中埜半六のお屋敷があった。現在は市民団体・特定非営利活動法人「半六コラボ」が管理運営し、レストランや貸部屋として利用されている。
建物は明治22年(1889)に築造された。母屋を始め茶室や9棟の蔵などが建ち並んでいた。昭和40年代には、大相撲名古屋場所において二所ノ関部屋の宿舎に当てがわれ、横綱・大鵬も宿泊していたという。広い庭には土俵もあったのだろう。

母屋の南には回遊式の日本庭園があり、現在もその姿を留めている。中央に池があり、灯籠や大きな庭石が据えられている。池は運河と繋がっていて、潮の干満により水面が上下したという。いわゆる「潮入りの庭」であった。
お屋敷の北側に、中埜酒造の本社工場がある。狭い路地を挟んで黒い板壁の建物が並んでいて、「清酒・国盛」の看板も架かっている。建物の一部は「酒の文化館」になっていて、伝統的な酒造りや古い道具類を観ることができる。

建物は明治22年(1889)に築造された。母屋を始め茶室や9棟の蔵などが建ち並んでいた。昭和40年代には、大相撲名古屋場所において二所ノ関部屋の宿舎に当てがわれ、横綱・大鵬も宿泊していたという。広い庭には土俵もあったのだろう。

母屋の南には回遊式の日本庭園があり、現在もその姿を留めている。中央に池があり、灯籠や大きな庭石が据えられている。池は運河と繋がっていて、潮の干満により水面が上下したという。いわゆる「潮入りの庭」であった。
お屋敷の北側に、中埜酒造の本社工場がある。狭い路地を挟んで黒い板壁の建物が並んでいて、「清酒・国盛」の看板も架かっている。建物の一部は「酒の文化館」になっていて、伝統的な酒造りや古い道具類を観ることができる。
