Entries
長太(なご)の大楠
年に数回は近鉄に乗ります。津や伊勢、時には奈良方面に行くのに近鉄を使います。白子駅に近づくころに右側の車窓から見ると、水田のただ中に大きなクスノキが見えます。手前の電柱などと比較するとかなりの太さのようです。一度降りて近くへ行ってみたいと、以前から思っていました。
昨日は伊勢に向かっていました。同じような気持ちで眺めていてビックリ! 枝が枯れているではありませんか。伊勢神宮の調査の帰りに、「箕田(みだ)駅」で途中下車しました。下から見上げると多くの枝が枯れ、「胴吹き」の枝が出ています。これは明らかに根に異常があると思いました。

直径2.9m、高さ26m、全国でも有数の大木です。近所で草刈りをしている人に聞くと、「昔は根元に神社があり、近くに池があったけれど埋めてしまった。そのころから弱っている」とのこと。根元周りを見るとロープ柵で囲んであり、車も入れないので「踏圧」ではないように思います。
箕田駅から2つ目に「楠」という駅があります。この地域にクスノキがたくさんあるからか、この大楠があるから命名されたのでしょう?市の天然記念物にも指定されていて、担当の職員も見に来ているとの話なので、何とか手当を施し、樹勢を回復してほしいと思います。

昨日は伊勢に向かっていました。同じような気持ちで眺めていてビックリ! 枝が枯れているではありませんか。伊勢神宮の調査の帰りに、「箕田(みだ)駅」で途中下車しました。下から見上げると多くの枝が枯れ、「胴吹き」の枝が出ています。これは明らかに根に異常があると思いました。

直径2.9m、高さ26m、全国でも有数の大木です。近所で草刈りをしている人に聞くと、「昔は根元に神社があり、近くに池があったけれど埋めてしまった。そのころから弱っている」とのこと。根元周りを見るとロープ柵で囲んであり、車も入れないので「踏圧」ではないように思います。
箕田駅から2つ目に「楠」という駅があります。この地域にクスノキがたくさんあるからか、この大楠があるから命名されたのでしょう?市の天然記念物にも指定されていて、担当の職員も見に来ているとの話なので、何とか手当を施し、樹勢を回復してほしいと思います。

名鉄山崎川橋梁と陸閘門
山崎川の下流域では、たびたび氾濫が起こっている。名鉄呼続駅あたりの海抜は約2mである。伊勢湾台風のような高潮や、今後予想される南海トラフ大地震による津波が発生すれば、大きな災害が起こることも懸念されている。
名鉄本線の橋梁が山崎川に架けられたのは大正6年(1917)のことである。その後、山崎川の堤防は氾濫対策として嵩上げされた。しかし、山崎川橋梁はそのままの高さであったので、線路から逸水する危険があった。昭和39年(1964)にその対策として造られたのが「陸閘門」である。

洪水の危険性が高まると、線路をゲートにより閉鎖して水を防ぐ装置である。もちろん左岸・右岸両方に設置されている。現地に設置された表示板によれば、ゲートの長さは9.55m、高さは1.0m、重量は3.3トンである。
陸閘門が閉鎖されれば、電車は通行止めとなって乗客への影響は大きい。1990年から2018年までの28年間に、16回もの閉鎖があったという。名古屋市には、山崎川から天白川までの名鉄本線を高架化する計画がある。

名鉄本線の橋梁が山崎川に架けられたのは大正6年(1917)のことである。その後、山崎川の堤防は氾濫対策として嵩上げされた。しかし、山崎川橋梁はそのままの高さであったので、線路から逸水する危険があった。昭和39年(1964)にその対策として造られたのが「陸閘門」である。

洪水の危険性が高まると、線路をゲートにより閉鎖して水を防ぐ装置である。もちろん左岸・右岸両方に設置されている。現地に設置された表示板によれば、ゲートの長さは9.55m、高さは1.0m、重量は3.3トンである。
陸閘門が閉鎖されれば、電車は通行止めとなって乗客への影響は大きい。1990年から2018年までの28年間に、16回もの閉鎖があったという。名古屋市には、山崎川から天白川までの名鉄本線を高架化する計画がある。

平針歩道橋
県道56号線は、名古屋市千種区と岡崎を結ぶ主要道路である。通称「平針街道」と呼ぶ。地下鉄原駅と平針駅の間で国道302号と交差する。この交差点にユニークな横断歩道橋がある。「平針歩道橋」という。その上を名古屋第二環状自動車道が走っている。
平針は家から近いので、買い物などによく行く。この歩道橋の下も何回かくぐっており、変わった橋だなと思っていた。その時には「円形」の橋と思っていたけれど、今回取材して下から見たり上を歩いたりしたところ、長目の楕円形であることが判った。

1994年に完成、4交差点にそれぞれ円柱の橋脚があり階段・スロープもある。橋長は1周で約180m、幅員は3mである。型式は「鋼4径間連続ラーメン橋」という。
設計したコンサルタントのホームページを見ると、検討段階で平面形状は、「平行四辺形」「X型」「H型」なども比較した結果「楕円」にしたという。柔らかさや安らぎのある形であり、ランドマークにもなることが採用した理由とのことである。

平針は家から近いので、買い物などによく行く。この歩道橋の下も何回かくぐっており、変わった橋だなと思っていた。その時には「円形」の橋と思っていたけれど、今回取材して下から見たり上を歩いたりしたところ、長目の楕円形であることが判った。

1994年に完成、4交差点にそれぞれ円柱の橋脚があり階段・スロープもある。橋長は1周で約180m、幅員は3mである。型式は「鋼4径間連続ラーメン橋」という。
設計したコンサルタントのホームページを見ると、検討段階で平面形状は、「平行四辺形」「X型」「H型」なども比較した結果「楕円」にしたという。柔らかさや安らぎのある形であり、ランドマークにもなることが採用した理由とのことである。

牧野が池緑地と猪高緑地の竹林
「竹林」と言えば、京都・嵯峨野(上の写真)を思い浮かべる。周辺の寺院や庭園と相俟って人気が高く、多くの観光客が訪れる。それにも負けず劣らぬ竹林が名古屋にもある。牧野ヶ池緑地と猪高緑地である。しかし残念なことに認知度が低く、多くの人々を呼び寄せるまでには至っていない。
孟宗竹は大陸から伝わったが、13世紀に道元禅師が持ち帰ったという伝承もあるし、薩摩藩主の磯庭園では日本で初めて琉球から取り寄せたともいう。いずれにせよ、農業用の用材などとして使用されてきたが、近年では放置された竹林が多く、雑木林を侵食して迷惑者にもなっている。

牧野ヶ池緑地(中の写真)ではかなり手が入っており、枯れた棹や倒れた竹は綺麗に取り払われている。猪高緑地(下の写真)はまだ整備中の公園であり、現在は地域のボランティアの人たちの活動に支えられている。
景観の大きな要素となる園路の人止め柵は、三者三様である。京都では、刈りはらった竹の枝を立てて独特の「垣」にしている。この写真では人の背より高くて見通しが悪く、少し鬱陶しい感じがする。牧野ヶ池は、金属かプラスチックの「擬竹」を採用している。猪高は園路舗装も「チップ」を播いただけという野趣な整備で、人止め柵も木杭にロープを張っただけ、あるいは伐採した竹を横に縛っただけの簡素なものである。管理上一長一短だとは思うが、私の好みは猪高方式である。

孟宗竹は大陸から伝わったが、13世紀に道元禅師が持ち帰ったという伝承もあるし、薩摩藩主の磯庭園では日本で初めて琉球から取り寄せたともいう。いずれにせよ、農業用の用材などとして使用されてきたが、近年では放置された竹林が多く、雑木林を侵食して迷惑者にもなっている。

牧野ヶ池緑地(中の写真)ではかなり手が入っており、枯れた棹や倒れた竹は綺麗に取り払われている。猪高緑地(下の写真)はまだ整備中の公園であり、現在は地域のボランティアの人たちの活動に支えられている。
景観の大きな要素となる園路の人止め柵は、三者三様である。京都では、刈りはらった竹の枝を立てて独特の「垣」にしている。この写真では人の背より高くて見通しが悪く、少し鬱陶しい感じがする。牧野ヶ池は、金属かプラスチックの「擬竹」を採用している。猪高は園路舗装も「チップ」を播いただけという野趣な整備で、人止め柵も木杭にロープを張っただけ、あるいは伐採した竹を横に縛っただけの簡素なものである。管理上一長一短だとは思うが、私の好みは猪高方式である。

東山荘
山崎川は、平和公園の猫ヶ洞池に端を発し、瑞穂運動場の真中を貫いて南に流れている。運動場の1kmほど北には「壇渓」と呼ぶ景勝地があった。山崎川は、御器所台地と八事丘陵の間を流れるが、東岸の八事の方は小高い山地になっていて、この一帯は緑豊かな土地柄であったのだろう。
運動場と壇渓の中ほどに「東山荘(とうざんそう)」がある。航空写真で見ると、先ほど述べた丘陵の緑が、ここだけに未だに残っているのである。東山荘は、綿布商の伊東信一氏によって造営された別荘である。大正時代初期から10年ほどもかけて、丹念に造られた建築と庭園である。

氏が亡くなった後は遺言により名古屋市に寄付され、公園として一般公開された。戦時中の一時期は市長公舎として使用されたが、現在は開放されている。仰西庵などお茶室2・書院造りの和室3・洋室が2つあり、貸部屋としてお茶会や読書会に使用されている。
庭園は、山崎川への斜面や自然林を巧みに利用した「池泉回遊式」である。豪壮な滝石組や書院前の石庭があると言うが、この日は見ることができなかった。自然林の中にも、飛び石や石橋などを使った園路があるけれど、手があまり入っていないので荒れた印象である。惜しいことだと思う。

運動場と壇渓の中ほどに「東山荘(とうざんそう)」がある。航空写真で見ると、先ほど述べた丘陵の緑が、ここだけに未だに残っているのである。東山荘は、綿布商の伊東信一氏によって造営された別荘である。大正時代初期から10年ほどもかけて、丹念に造られた建築と庭園である。

氏が亡くなった後は遺言により名古屋市に寄付され、公園として一般公開された。戦時中の一時期は市長公舎として使用されたが、現在は開放されている。仰西庵などお茶室2・書院造りの和室3・洋室が2つあり、貸部屋としてお茶会や読書会に使用されている。
庭園は、山崎川への斜面や自然林を巧みに利用した「池泉回遊式」である。豪壮な滝石組や書院前の石庭があると言うが、この日は見ることができなかった。自然林の中にも、飛び石や石橋などを使った園路があるけれど、手があまり入っていないので荒れた印象である。惜しいことだと思う。

裁断橋(熱田区と大口町)
笠寺から宮の渡しへ向かう旧東海道が精進川(しょうじがわ=現新堀川)を渡るところに「裁断橋」が架かっていた。江戸時代には、この川を「三途の川」に見立てて、橋のたもとに「姥堂」が建てられていた。今では川筋も変わり、姥堂もRCの建物に変わってしまっている。
ただ、建物の前庭に裁断橋の複製が残り、御影石の石柱に「裁断橋」「姥堂」の文字を見ることができる。昔の様子は、大口町の「堀尾跡公園」の陶板レリーフを見るとよく分かる。太鼓橋を渡る旅人がおり、渡った向うに熱田神宮の鳥居が見える。手前には瓦屋根の「姥堂」が建っている。

裁断橋には、息子を戦場に送り出す「母」の悲痛な物語が残されている。天正18年(1590)秀吉による小田原征伐に参戦した、堀尾金助という若者を見送った橋である。橋の擬宝珠には、母親が33回忌の供養のために橋を架け変えたことが記されている。
堀口家のお城が大口町にあったことから、町を流れる五条川に裁断橋と擬宝珠が復原された。一帯は公園として整備され、「堀尾跡公園」と名付けられている。擬宝珠の本物は名古屋市の文化財に指定されており、損傷を防ぐために名古屋市博物館に保存されている。

ただ、建物の前庭に裁断橋の複製が残り、御影石の石柱に「裁断橋」「姥堂」の文字を見ることができる。昔の様子は、大口町の「堀尾跡公園」の陶板レリーフを見るとよく分かる。太鼓橋を渡る旅人がおり、渡った向うに熱田神宮の鳥居が見える。手前には瓦屋根の「姥堂」が建っている。

裁断橋には、息子を戦場に送り出す「母」の悲痛な物語が残されている。天正18年(1590)秀吉による小田原征伐に参戦した、堀尾金助という若者を見送った橋である。橋の擬宝珠には、母親が33回忌の供養のために橋を架け変えたことが記されている。
堀口家のお城が大口町にあったことから、町を流れる五条川に裁断橋と擬宝珠が復原された。一帯は公園として整備され、「堀尾跡公園」と名付けられている。擬宝珠の本物は名古屋市の文化財に指定されており、損傷を防ぐために名古屋市博物館に保存されている。
