fc2ブログ

Entries

ブログ発信878回

 私ごとですが、この9月いっぱいで会社を退職します。12年近く勤めさせていただきました。その間、ブログを878回発信しました。どの記事も、全て現地に足を運んで調査しましたし、写真もごく一部を除いて全て自分で撮影したものです。
 「土木施設」は、一歩街へ出れば当たり前に存在しますので、意識的に見たり感じたりするものではありません。しかし、道路でも河川でも公園でも、造るに当たっては技術者や職人たちが汗水たらして工事したものです。そこに目や光を当てたいとするのがこのブログの趣旨でした。

 「文化」というと、美術や音楽など芸術性の高いものだという一般概念があります。しかし、「自然をそのままにせず、人類の叡智・技術を駆使して生活に役立てる行為は『文化』である」という思いで、「土木文化」と名付けました。12年のお付き合いの間にお分かりいただけたでしょうか。
 中部復建の職員でなくなりますので、「オフィシャル・ブログ」としてはこれで終息させていただきます。しかし、12年の間にブログの作成、すなわち事前調査・現地での写真撮影・帰ってからの執筆などが、私の生甲斐になってしまいました。そこで何らかの形で継続したいと考えています。

冊子の表紙G

 以下の数字は、「地域別」と「項目別」の発信数です。上の写真は、一区切りの記念に作った小冊子の表紙です。代表的な記事と878回分の目次、さらに200回を越した「季節通信」についても記してあります。

愛知県 名古屋市 岐阜県 三重県 静岡県 長野県 他都市 外国 その他
243   151    114   67   110   49    69  30  45

道 路  橋   池・川  建 築  公 園  港  鉄道  発電所  その他
 69   144  56    149   151  30  51    31   166




イチョウとソテツの進化

 今年のNHK朝ドラは、牧野富太郎の生涯を描いていますので面白く見ています。毎回いろいろな植物が紹介されますが、季節外れのものもありますので不思議に思っていました。新聞の紹介記事で、精密な模造品を作っていると知り納得しました。
 植物学黎明期の東大植物学教室の状況も描かれていて、その面からも興味深い番組です。その中で、イチョウとソテツの精子発見の話題が出てきます。いずれも生物進化の過程で、シダから種子植物に移行する中間的位置にある種だそうです。

イチョウG

 イチョウの精子の発見は、明治29年10月に平瀬作五郎という人が成し遂げました。世界的な大ニュースとなる大発見でした。10年ほど前に東大小石川植物園を見学したとき、大きなイチョウの木に石の記念碑が立っていて、この木が精子発見の木だという説明を聞きました。
 ソテツの方も、同じ植物学教室の池野誠一郎が発見しました。ソテツは暖かい土地で良好な生育をしますので、池野は鹿児島まで行って試料を採取したそうです。その子孫が小石川植物園に移植されています。写真は鶴舞公園東門の古木です。

ソテツG



千本松原と長良川大橋

 「木曽三川国営公園」のあるこの地区は、かつて木曽・長良・揖斐の大河川が合流し、水害の絶えない土地であった。「宝暦の治水」は、ドラマや演劇で観るような薩摩藩士の犠牲的な努力により、宝暦4~5年(1754~1755)に行われた。
 明治時代の改修工事により、宝暦当時の堤防は大きく形を変えたが、薩摩藩士たちの植えた「千本の日向松」は今も残っている。中には200年を越える老松もあり、昭和15年に「油島千本松締切堤」として国の史跡に指定されている。

千本松原G

 木曽・長良・揖斐の三川を県道佐屋多度線が跨ぐのは、「立田大橋」「長良川大橋」「油島大橋」である。他の2橋は普通の桁橋であるが、真ん中の長良川大橋は「鋼ローゼ橋」で、銀色のアーチが目立っている。長さ472m、幅員7mである。
 国営公園センター地区に立つ展望タワーに登ると360度視界が開け、水郷地帯の全貌を見ることができる。三川の蛇行の姿、県道の橋の様子、締切堤と松並木。春には見事なチューリップ花壇を見ることができる。ちなみにタワーの高さは65mである。

マップ千本松原

船頭平閘門と木曽川文庫

 木曽川下流域は、木曽・長良・揖斐の3河川が入り乱れて流れていました。物流は舟が主体であり、犬山・岐阜・大垣などは、3河川から伊勢湾を経て名古屋や伊勢と結ばれていました。しかし、明治期の「三川分流工事」によりそれぞれ独立した川になりました。
 これにより洪水は大きく防げるようになりましたが、船便は一々河口を回らなければ隣の川へ行けなくなりました。そこで明治27年(1894)、立田村船頭平地内に閘門を設置することが企画されました。木曽川と長良川の水位差1mを調整して舟を通す装置です。

閘門G

 明治35年に完成し、大正初年までは年間2万隻以上の船が通過しました。木曽川下りの筏も多く、年間1万枚を超えていたといいます。しかし、昭和8年・9年に尾張大橋・伊勢大橋が完成すると陸上交通が発達し、船や筏は減少しました。閘門の現在は、漁船やレジャーボートに使用されています。
 閘門の近くに「木曽川文庫」が昭和62年に設置されました。緑青色の屋根と、レンガ壁の洋風建物です。ここには木曽三川に関する図書や研究論文が収蔵・保存されています。太古の昔より水との戦いを繰り広げてきた「川の歴史」を学ぶ場として、専門家や一般の人に利用されています。

閘門マップ

尾張大橋と木曽川橋梁(近鉄・関西本線)

 東海道が木曽川を渡るのが「尾張大橋」である。長島を斜めに横断して、次に「伊勢大橋」を渡って伊勢の国に至る。昭和8年(1933)の開通。幅員7.5m、「下路ランガートラス鋼橋」という型式も伊勢大橋と同じである。13連で、全長879mである。
 橋の近くに「東海道」と記した石柱が立っている。側面には「明治廿五年四月一日」と刻まれている。古くは、京と関東を結ぶ道は「鎌倉街道」と呼ばれていた。江戸時代に五街道の一つとして東海道が整備された。明治になって国道になったが、明治25年は何かエポックの年なのだろうか?

尾張大橋G

 尾張大橋と並行して2本の鉄道橋が走っている。関西本線と近鉄名古屋線である。どちらも「木曽川橋梁」と呼ぶ。JRの方は三代目、昭和51年に完成した。延長854m、複線式の単純トラス橋である。近鉄線の方は、昭和34年9月26日に完成する。860mのワーレントラス橋である。
 ところが何とその竣工当日の夜に伊勢湾台風が来襲する。近鉄線は大きな被害を受けてしまった。近鉄はこの災害をきっかけに、それまで「狭軌」だった線路幅を広げて「標準軌化」することを決定した。この「木曽川橋梁」も復旧に合わせて線路幅を広げ、2か月後に供用開始された。

尾張大橋マップ


名四国道と東海道の橋

 伊勢湾岸道路の2kmほど上流に、名四国道が走っている。この道路が木曽三川を渡るのが「木曽川大橋」と「揖斐長良大橋」である。この両橋は、昭和38年(1963)に一般有料道路として供用開始された。当初は二車線であったが昭和41年に下り線が完成し四車線となった。
 いずれも「単純平行弦下路ワーレントラス」という型式である。木曽川の方は12連で約860m、揖斐長良は14連1040mである。昭和47年に豊明と四日市を結ぶ「名四国道」が開通し、両橋はその一部となって無料開放された。

名四マップ

 国道1号が揖斐・長良を渡るのが「伊勢大橋」である。これのペアは「尾張大橋」であるが、長島で曲がることによりずれているので一体の橋には感じられない。昭和9年の開通であるので、名前もその時代を反映している。東海道が「尾張」を過ぎれば「伊勢」の国に入るということだろう。
 幅員は7.5m、長さは1106m、型式は15連の「下部ランガートラス鋼橋」である。当時としては東洋一の規模であり、最高の技術が駆使されているという。橋の中ほどに信号交差点がある。これは、千本松原を走る県道と交わる地点である。長良川河口堰が近くに見える。

伊勢大橋G

▲ページトップ

Appendix

カレンダー

08 | 2023/09 | 10
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

ブログを始めるに当って

 私ども「中部復建」は、戦後から一貫して土木施設の計画設計に携わってきました。地域の皆さんに、より身近に土木を感じて頂きたく先人が残してくれた土木遺産等を訪ね歩き≪中部の『土木文化』見てある記≫として、皆さんに紹介していきたいと思い、このブログを発信する事としました。  

コンパクト月別アーカイブ

最新記事

         

建設・補償コンサルタント

プロフィール

FC2USER480348EQK

Author:FC2USER480348EQK
森 田 高 尚
昭和21年6月 半田市生まれ
平成12年 東山植物園長
平成17年 名古屋市緑地部長
平成19年 中電ブルーボネット園長
平成24年 中部復建技術顧問
技術士:(建設部門・環境部門)
公園管理運営士 
著書:『園長さんのガーデンライフ』
監修:『世界一うつくしい植物園』
 (著者:木谷美咲)
FC2ブログへようこそ!

最新トラックバック

        

検索フォーム

QRコード

QR
▲ページトップ