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大垣の道標・記念碑
美濃路は、中山道と東海道を結ぶ街道である。垂井から大垣の城下町を抜け、墨俣から尾張へと入り熱田の宮で東海道に通じていた。 「岐阜町道標」 ①は常夜灯を兼ねた道しるべである。
300mほど南に下った 「本町道標」 ②は、美濃路と竹鼻街道との分岐点に建てられている。 “左江戸道” “右京道” と書かれている。


大垣城のお堀に当たる水門川を自転車で廻ってみた。そこここに由緒のある記念碑が建てられている。 「飯沼慾斎邸跡」 ③は、我が国植物学の創始者飯沼慾斎が、蘭方医として医学に従事していたところである。
「奥の細道むすびの地」 ④、元禄2年 (1689) 3月27日に江戸深川を出発した芭蕉は、奥州から北陸を経て、この地で旅を終えた。 「蛤の ふたみに別 行秋そ」 、奥の細道むすびの句を残している。
「大垣宿問屋場跡」 ⑤、宿場において人馬の継立の業務を行ったところが 「問屋場」 である。ここには、問屋役を始め助役の年寄、事務担当の帖付や馬指、人馬指などが詰めていた。
8代藩主戸田采女正氏廉は、藩士の子弟教育のため天保11年 (1840) 辰之口門外に学問所を創設した。のちに 「到道館」 、さらに改め 「敬教堂」 と称した。その跡地に孔子像と並んで 「大垣藩校敬教堂跡」 ⑥と記した記念碑が建てられている。

300mほど南に下った 「本町道標」 ②は、美濃路と竹鼻街道との分岐点に建てられている。 “左江戸道” “右京道” と書かれている。


大垣城のお堀に当たる水門川を自転車で廻ってみた。そこここに由緒のある記念碑が建てられている。 「飯沼慾斎邸跡」 ③は、我が国植物学の創始者飯沼慾斎が、蘭方医として医学に従事していたところである。
「奥の細道むすびの地」 ④、元禄2年 (1689) 3月27日に江戸深川を出発した芭蕉は、奥州から北陸を経て、この地で旅を終えた。 「蛤の ふたみに別 行秋そ」 、奥の細道むすびの句を残している。
「大垣宿問屋場跡」 ⑤、宿場において人馬の継立の業務を行ったところが 「問屋場」 である。ここには、問屋役を始め助役の年寄、事務担当の帖付や馬指、人馬指などが詰めていた。
8代藩主戸田采女正氏廉は、藩士の子弟教育のため天保11年 (1840) 辰之口門外に学問所を創設した。のちに 「到道館」 、さらに改め 「敬教堂」 と称した。その跡地に孔子像と並んで 「大垣藩校敬教堂跡」 ⑥と記した記念碑が建てられている。

美濃路は、中山道と東海道を結ぶ街道である。垂井から大垣の城下町を抜け、墨俣から尾張へと入り熱田の宮で東海道に通じていた。「岐阜町道標」 ①は常夜灯を兼ねた道しるべである。
300mほど南に下った 「本町道標」 ②は、美濃路と竹鼻街道との分岐点に建てられている。“左江戸道”“右京道”と書かれている。

①岐阜町道標 ②本町道標 ③飯沼慾斎邸跡

④奥の細道むすびの地 ⑤大垣宿問屋場跡 ⑥大垣藩校敬教堂跡
大垣城のお堀に当たる水門川を自転車で廻ってみた。そこそこに由緒のある記念碑が建てられている。「飯沼慾斎邸跡」③は、我が国植物学の創始者飯沼慾斎が、蘭方医として医学に従事していたところである。
「奥の細道むすびの地」④、元禄2年(1689)3月27日に江戸深川を出発した芭蕉は、奥州から北陸を経て、この地で旅を終えた。「蛤の ふたみに別 行秋そ」、奥の細道むすびの句を残している。
「大垣宿問屋場跡」⑤、宿場において人馬の継立の業務を行ったところが「問屋場」である。ここには、問屋役を始め助役の年寄、事務担当の帖付や馬指、人馬指などが詰めていた。
8代藩主戸田采女正氏廉は、藩士の子弟教育のため天保11年 (1840) 辰之口門外に学問所を創設した。のちに 「到道館」、さらに改め「敬教堂」と称した。その跡地に孔子像と並んで 「大垣藩校敬教堂跡」 ⑥と記した記念碑が建てられている。

300mほど南に下った 「本町道標」 ②は、美濃路と竹鼻街道との分岐点に建てられている。“左江戸道”“右京道”と書かれている。

①岐阜町道標 ②本町道標 ③飯沼慾斎邸跡

④奥の細道むすびの地 ⑤大垣宿問屋場跡 ⑥大垣藩校敬教堂跡
大垣城のお堀に当たる水門川を自転車で廻ってみた。そこそこに由緒のある記念碑が建てられている。「飯沼慾斎邸跡」③は、我が国植物学の創始者飯沼慾斎が、蘭方医として医学に従事していたところである。
「奥の細道むすびの地」④、元禄2年(1689)3月27日に江戸深川を出発した芭蕉は、奥州から北陸を経て、この地で旅を終えた。「蛤の ふたみに別 行秋そ」、奥の細道むすびの句を残している。
「大垣宿問屋場跡」⑤、宿場において人馬の継立の業務を行ったところが「問屋場」である。ここには、問屋役を始め助役の年寄、事務担当の帖付や馬指、人馬指などが詰めていた。
8代藩主戸田采女正氏廉は、藩士の子弟教育のため天保11年 (1840) 辰之口門外に学問所を創設した。のちに 「到道館」、さらに改め「敬教堂」と称した。その跡地に孔子像と並んで 「大垣藩校敬教堂跡」 ⑥と記した記念碑が建てられている。

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