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長篠城の土塁跡
天正3年 (1575)、天下を狙う甲斐の武田勝頼は長篠城を大軍勢で取り囲んだ。武田勢は1万5千人、守るは徳川方の武将・奥平信昌率いるわずか5百人である。長篠城は、寒狭川 (現豊川) と大野川 (現宇連川) が合流する断崖絶壁、まさに自然の要塞といえる地形にある。また、鳥居強右衛門のエピソードが語るように守兵の意識も高く、織田・徳川連合軍到着まで何とか持ち堪えた。この後、かの有名な「設楽が原」での鉄砲による戦いが始まるのである。

長篠城には城郭が残っていない。この戦いの後、信昌は 「新城」 に新しい城をつくり、ここを廃城としたのである。現在本丸跡は芝生地となっていて、わずかに土塁や石垣、堀が残るばかりである。上の写真は、本丸と二之丸の間の堀と土塁である。この奥に飯田線が走っていて、その向こうに宇連川が流れている。(下の縄張図は南が上になっており、右のマップとは反対ですのでご注意ください)


長篠城には城郭が残っていない。この戦いの後、信昌は 「新城」 に新しい城をつくり、ここを廃城としたのである。現在本丸跡は芝生地となっていて、わずかに土塁や石垣、堀が残るばかりである。上の写真は、本丸と二之丸の間の堀と土塁である。この奥に飯田線が走っていて、その向こうに宇連川が流れている。(下の縄張図は南が上になっており、右のマップとは反対ですのでご注意ください)

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