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明治用水「旧頭首工」と「船通し」
矢作川下流域の碧海台地は水田に適さない洪積台地であり、長年、用水路による給水が悲願であった。明治13年に通水された明治用水は、台地を美田に変え、人々の豊かな生活を実現した。明治34年にはさらに頑丈な頭首工が完成した。下の絵図は、川幅いっぱいに堰堤が築かれ、右岸側から明治用水へと水を引く様子が描かれている。
この頭首工は、新しい頭首工が昭和33年にできた後の昭和41年、矢作川が一級河川になった際に取り壊された。しかし、左岸側の排砂門5門と船通し閘門は壊されずに残っている。コンクリートのない時代に服部長七が考案した 「人造石」 でできており、貴重な土木施設として、平成19年に土木学会が選奨する土木遺産に認定された。

陸上交通が発達するまでは、矢作川は物資輸送の大動脈で、多くの川船が海産物、板類、薪炭などを運んでいた。また、丸太は筏に組まれて送られていた。明治用水の取水が多い時期には、堰が締め切られるので、川の中央部に船通しが造られた。さらに、重い筏や力の弱い船は左岸の閘門を使って行き来した。閘門には上下に扉があり、松重閘門 (平成25年3月13日の当ブログ参照) と同じように水位を調整しながら船を通したのである。現在、扉のための 「ひじつぼ」 も残されている。

この頭首工は、新しい頭首工が昭和33年にできた後の昭和41年、矢作川が一級河川になった際に取り壊された。しかし、左岸側の排砂門5門と船通し閘門は壊されずに残っている。コンクリートのない時代に服部長七が考案した 「人造石」 でできており、貴重な土木施設として、平成19年に土木学会が選奨する土木遺産に認定された。

陸上交通が発達するまでは、矢作川は物資輸送の大動脈で、多くの川船が海産物、板類、薪炭などを運んでいた。また、丸太は筏に組まれて送られていた。明治用水の取水が多い時期には、堰が締め切られるので、川の中央部に船通しが造られた。さらに、重い筏や力の弱い船は左岸の閘門を使って行き来した。閘門には上下に扉があり、松重閘門 (平成25年3月13日の当ブログ参照) と同じように水位を調整しながら船を通したのである。現在、扉のための 「ひじつぼ」 も残されている。

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コメント
[C11] Re: 矢作川水源橋の閘門の件
- 2016-07-20 22:31
- 編集
[C5] 矢作川水源橋の閘門の件
初めまして桑原と申します。私は岡崎市の北野町の住人ですので水源橋は数回言ったことが有ります。橋の上流側に堰や石堤の様な物があり『これは何?』と不思議に思っていましたが、貴社のこのブログ?でそれが閘門だと分かり溜飲が下がりました。しかし、まだすっきりしませんので船がどのように頭首工を行き来したのか具体的に説明された資料などないでしょうか?有れば是非御開示お願いします。宜しくお願いします。
- 2016-07-10 05:18
- 編集
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> > > ブログに対して、コメントをいただきありがとうございます。熱心に見ていただいていることを知りうれしくなりました。矢作川、明治用水の頭首工や船の航行のための閘門につきましては、現地に説明板がありましたので、それを参考に記事を書きました。せっかくご質問をいただきましたので、お答えになるような追加記事を掲載したいと考えていますので、お待ちください。ブログにアクセスしていただける人が増えることを願っています。これからもよろしくお願いいたします。
> > > > > 森田高尚
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> > > > > > 初めまして桑原と申します。私は岡崎市の北野町の住人ですので水源橋は数回言ったことが有ります。橋の上流側に堰や石堤の様な物があり『これは何?』と不思議に思っていましたが、貴社のこのブログ?でそれが閘門だと分かり溜飲が下がりました。しかし、まだすっきりしませんので船がどのように頭首工を行き来したのか具体的に説明された資料などないでしょうか?有れば是非御開示お願いします。宜しくお願いします。