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日置橋
関が原の戦いに勝利して間もない慶長15年(1610)、家康は清洲にあった城と町を名古屋に移すことにした。未だ勢力を保っていた大坂方を防ぐには、低地の清洲より高台の名古屋の方がよいと考えたからである。ここで食止めている間に江戸や駿府から援軍が駆けつけるのである。
清洲からの引越しは町ぐるみであった。城、家屋、橋、さらに町名までも移転したという。世にいう「清洲越し」である。解体した建築資材などを運ぶのには水上輸送が使われた。五条川や庄内川を下った舟を、名古屋の町に運び上げるために造られた運河が堀川である。堀川開削の「普請」(土木工事)を命じられたのは西国大名の福島正則である。(ちなみに建築工事は「作事」という)

堀川には7つの橋が架けられた。上流から五条橋・中橋・伝馬橋・納屋橋・日置橋・古渡橋および佐屋街道の尾頭橋である。日置橋周辺は桜の名所として有名だった。川面には花見舟が浮かび、岸には茶屋や料理屋が並んでいたという。
現在の日置橋は明治14年造成、昭和13年に改築されたものである。親柱は御影石に銅製の擬宝珠がついている。欄干の手すりも御影石である。橋の両側に新しい歩道ができていて、欄干は黄色く塗装された鉄製である。


清洲からの引越しは町ぐるみであった。城、家屋、橋、さらに町名までも移転したという。世にいう「清洲越し」である。解体した建築資材などを運ぶのには水上輸送が使われた。五条川や庄内川を下った舟を、名古屋の町に運び上げるために造られた運河が堀川である。堀川開削の「普請」(土木工事)を命じられたのは西国大名の福島正則である。(ちなみに建築工事は「作事」という)

堀川には7つの橋が架けられた。上流から五条橋・中橋・伝馬橋・納屋橋・日置橋・古渡橋および佐屋街道の尾頭橋である。日置橋周辺は桜の名所として有名だった。川面には花見舟が浮かび、岸には茶屋や料理屋が並んでいたという。
現在の日置橋は明治14年造成、昭和13年に改築されたものである。親柱は御影石に銅製の擬宝珠がついている。欄干の手すりも御影石である。橋の両側に新しい歩道ができていて、欄干は黄色く塗装された鉄製である。


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