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岡崎城の堀と石垣
“5万石でも岡崎さまは、お城下まで船がつく” と古謡にも謡われたように、矢作川支流の菅生川 (現在は乙川)は、城の真下まで帆掛け舟が往来していた。菅生川は、また、伊賀川とともに外堀の役割も果たしていた。
築城されたのは康正元年 (1455)のこと。その後、家康の祖父・松平清康がこの地を本拠地とした。天文11年 (1542) この地で生誕した家康は、桶狭間の戦いの後、岡崎城を本城として三河武士を率いつつ戦国武将の道を歩んでいく。

戦国時代のお城であるが、様式は平城である。城の縄張りは (平面構成)、天然の要害ともいえる菅生川を活用しながら、お堀や石垣、土塁を配して複雑な形をした曲輪を形づくっている。
明治になって徳川の時代が去ると、城郭の大部分は取り壊されてしまった。しかし、堀や石垣は今も往時の姿を留めている。現在は桜の名所となっており、多くの市民が花見を楽しんでいる。今年は 「家康没後400年」 に当たり、一年を通じて各種のイベントが開催されている。

築城されたのは康正元年 (1455)のこと。その後、家康の祖父・松平清康がこの地を本拠地とした。天文11年 (1542) この地で生誕した家康は、桶狭間の戦いの後、岡崎城を本城として三河武士を率いつつ戦国武将の道を歩んでいく。

戦国時代のお城であるが、様式は平城である。城の縄張りは (平面構成)、天然の要害ともいえる菅生川を活用しながら、お堀や石垣、土塁を配して複雑な形をした曲輪を形づくっている。
明治になって徳川の時代が去ると、城郭の大部分は取り壊されてしまった。しかし、堀や石垣は今も往時の姿を留めている。現在は桜の名所となっており、多くの市民が花見を楽しんでいる。今年は 「家康没後400年」 に当たり、一年を通じて各種のイベントが開催されている。

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