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金原明善翁生家
金原明善の名前を見てふと思い出し、50年前に大学で学んだ 「砂防工学」 のノートを探し出してみた。そこにはやはり、治水・治山の偉大な実例として明善の事業が記してあった。彼は天竜川の洪水対策に一生をかけた郷土の偉人だったのである。
明治元年、“暴れ天竜” の度重なる水害に心を痛めた明善は、民心安定・産業復興のために立ち上がり、全財産を投じて治水事業を完成した。彼は治水事業を行っただけでなく、人を育てることも大切と考え、自家を提供して小学校や水利学校も創設した。

さらに、水害を防ぐには下流の治水事業を行うだけでなく、上流の治山事業も必要であるとの思いに達し、山地への植林事業にも乗り出した。明治19年、静岡県磐田郡の官林林相改良に着手したのを手始めに、岐阜県下の植林指導や富士山麓の模範林造成を行うなど、精力的に活動を続けた。
明善の生まれたこの家は、築後約200年を経て老朽化が著しかったが、平成23年 (2011) に、翁が暮らしていた当時の面影を残しつつ改修された。現在は、偉業を知ることのできる貴重な資料が展示され、一般に公開されている。下の写真で、奥の土蔵は二階建てで家財や米が収蔵され、手前は平屋で重要な書物や書類が保管されていた。いずれも水害を避けるため1mほど高い位置に造られている。

明治元年、“暴れ天竜” の度重なる水害に心を痛めた明善は、民心安定・産業復興のために立ち上がり、全財産を投じて治水事業を完成した。彼は治水事業を行っただけでなく、人を育てることも大切と考え、自家を提供して小学校や水利学校も創設した。

さらに、水害を防ぐには下流の治水事業を行うだけでなく、上流の治山事業も必要であるとの思いに達し、山地への植林事業にも乗り出した。明治19年、静岡県磐田郡の官林林相改良に着手したのを手始めに、岐阜県下の植林指導や富士山麓の模範林造成を行うなど、精力的に活動を続けた。
明善の生まれたこの家は、築後約200年を経て老朽化が著しかったが、平成23年 (2011) に、翁が暮らしていた当時の面影を残しつつ改修された。現在は、偉業を知ることのできる貴重な資料が展示され、一般に公開されている。下の写真で、奥の土蔵は二階建てで家財や米が収蔵され、手前は平屋で重要な書物や書類が保管されていた。いずれも水害を避けるため1mほど高い位置に造られている。

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