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掛川城の天守閣と御殿
掛川の城の歴史は古く、西暦1500年ごろに今川氏が築いたのが最初といわれます。その後、今川氏の勢力拡大に伴って手狭となり、500mほど西の現在地に新たな城が築かれました。しかし、永禄3年 (1560) に今川義元が桶狭間の戦いで討たれると、永禄11年には徳川家康がこの城を攻め取りました。一時期、豊臣秀吉の支配下になり山内一豊が入城しましたが、江戸時代には徳川譜代大名の居城となりました。
外観の美しい天守閣は 「東海の名城」 と謳われましたが、安政元年 (1854) の東海大地震により損壊し、再建されることもなく明治維新の廃城を迎えます。それから140年を経た平成6年、掛川市民の熱意と努力が実を結び、全国初の本格的木造建築として復元されました。

天守閣の南東にある二の丸に、御殿が残っています。安政の大地震では御殿も倒壊しましたが、時の城主太田氏によって文久元年(1861)に再建されました。明治になって藩が廃されると、学校や役場として使用されてきました。
昭和47年から50年にかけて、藩の政治や大名の生活が偲ばれる貴重な建築として保存修理が施され、昭和55年には国の重要文化財に指定されました。現存する城郭御殿としては、京都ニ条城など全国に4か所しかない貴重な建物です。

外観の美しい天守閣は 「東海の名城」 と謳われましたが、安政元年 (1854) の東海大地震により損壊し、再建されることもなく明治維新の廃城を迎えます。それから140年を経た平成6年、掛川市民の熱意と努力が実を結び、全国初の本格的木造建築として復元されました。

天守閣の南東にある二の丸に、御殿が残っています。安政の大地震では御殿も倒壊しましたが、時の城主太田氏によって文久元年(1861)に再建されました。明治になって藩が廃されると、学校や役場として使用されてきました。
昭和47年から50年にかけて、藩の政治や大名の生活が偲ばれる貴重な建築として保存修理が施され、昭和55年には国の重要文化財に指定されました。現存する城郭御殿としては、京都ニ条城など全国に4か所しかない貴重な建物です。

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