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駿府城
徳川家康は、駿府に3度住んでいる。最初は天文18年 (1549) から10年ほど、今川氏の人質として少年時代を過ごした。2度目は今川氏が滅びた後、天正14年 (1586) に駿府城を居城とし、天守閣を始めとする二ノ丸までを完成させた。ところがわずか4年後には、秀吉の命によって関東へ転封させられてしまった。
最後は江戸に幕府を開いてから、慶長12年 (1607) に秀忠に将軍職を譲って大御所となったときである。このときには全国の大名に命じて (天下普請)、お城と城下町の大幅な改造を行なった。当時の実権は、まだ家康が握っていたので、駿府は江戸を凌ぐ政治の中心地となったのである。

天守閣は寛永12年 (1635) の大火で焼失して以来再建されず、安政元年 (1854) の大地震では、建物や石垣などがほとんど全壊してしまった。明治になって陸軍省に献納されたが、昭和24年に静岡市に払い下げられ、今は 「駿府公園」 と名付けられて市民に親しまれている。平成元年に 「巽櫓」 が、同8年には 「二ノ丸東御門」 が復元された。
≪上の写真は巽櫓から見た東御門橋、下の写真は南西角にある「坤櫓( ひつじさるやぐら) 」 である。下の図は、土佐光成が宝永年間に描いた 「駿府城下鳥瞰図 (部分) 」 である。現在は、駿府博物館に所蔵されている。≫

最後は江戸に幕府を開いてから、慶長12年 (1607) に秀忠に将軍職を譲って大御所となったときである。このときには全国の大名に命じて (天下普請)、お城と城下町の大幅な改造を行なった。当時の実権は、まだ家康が握っていたので、駿府は江戸を凌ぐ政治の中心地となったのである。

天守閣は寛永12年 (1635) の大火で焼失して以来再建されず、安政元年 (1854) の大地震では、建物や石垣などがほとんど全壊してしまった。明治になって陸軍省に献納されたが、昭和24年に静岡市に払い下げられ、今は 「駿府公園」 と名付けられて市民に親しまれている。平成元年に 「巽櫓」 が、同8年には 「二ノ丸東御門」 が復元された。
≪上の写真は巽櫓から見た東御門橋、下の写真は南西角にある「坤櫓( ひつじさるやぐら) 」 である。下の図は、土佐光成が宝永年間に描いた 「駿府城下鳥瞰図 (部分) 」 である。現在は、駿府博物館に所蔵されている。≫

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