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6本目の東海道(新東名開通)
「東海道」 を歴史的にみてみよう。
最初は7世紀、律令制の時代に五畿七道が定められた。これは地域分け (北海道というように) で、七道は西海道・山陰道・山陽道・南海道・北陸道・東山道・東海道を指す。そのうちの東海道には、伊賀・伊勢・尾張・三河から常陸までの15か国が含まれている。時代が下ると、それらの国府を貫く “道路” も「東海道」と呼ぶようになった。
2番目は平安末期、新しく誕生した鎌倉幕府と京とを結ぶ道である。「京・鎌倉往還」といい、西暦でいうと1200年頃から1600年頃まで続いた道である。現在は、所々に鎌倉街道と呼ばれるその部分が残っている。
3番目は江戸時代になってから。徳川家康は、江戸を中心とする五街道を整備した。日光街道・奥州街道・中山道・甲州街道そして東海道である。街道には、旅人の便を図るために宿場町や伝馬の制度、並木や一里塚が整備された。
4番目は明治時代、現東海道すなわち国道1号である。5番目は、名神高速道路と東名高速道路。名神は西宮から小牧までの約190km、昭和40年に開通した。東名は小牧から東京までの約350km、昭和44年に開通した。

そしていよいよ 「新東名」 の誕生である。昨日2月13日、浜松いなさJCTから豊田東JCTまでの55kmが開通した。これで、御殿場から豊田までの約200kmが利用できることになり、現東名高速道路の渋滞緩和や、沿道地域の経済的発展などの効果が見込まれている。今後、首都圏との接続や四日市から関西方面への延伸により、第6番目の「東海道」が完成するのである。
≪文章は池田誠一氏の 『なごやの鎌倉街道をさがす』 を参考にした。写真は中日新聞社 ヘリ「あさづる」 から川柳晶寛氏が撮影したものを転載した≫
最初は7世紀、律令制の時代に五畿七道が定められた。これは地域分け (北海道というように) で、七道は西海道・山陰道・山陽道・南海道・北陸道・東山道・東海道を指す。そのうちの東海道には、伊賀・伊勢・尾張・三河から常陸までの15か国が含まれている。時代が下ると、それらの国府を貫く “道路” も「東海道」と呼ぶようになった。
2番目は平安末期、新しく誕生した鎌倉幕府と京とを結ぶ道である。「京・鎌倉往還」といい、西暦でいうと1200年頃から1600年頃まで続いた道である。現在は、所々に鎌倉街道と呼ばれるその部分が残っている。
3番目は江戸時代になってから。徳川家康は、江戸を中心とする五街道を整備した。日光街道・奥州街道・中山道・甲州街道そして東海道である。街道には、旅人の便を図るために宿場町や伝馬の制度、並木や一里塚が整備された。
4番目は明治時代、現東海道すなわち国道1号である。5番目は、名神高速道路と東名高速道路。名神は西宮から小牧までの約190km、昭和40年に開通した。東名は小牧から東京までの約350km、昭和44年に開通した。

そしていよいよ 「新東名」 の誕生である。昨日2月13日、浜松いなさJCTから豊田東JCTまでの55kmが開通した。これで、御殿場から豊田までの約200kmが利用できることになり、現東名高速道路の渋滞緩和や、沿道地域の経済的発展などの効果が見込まれている。今後、首都圏との接続や四日市から関西方面への延伸により、第6番目の「東海道」が完成するのである。
≪文章は池田誠一氏の 『なごやの鎌倉街道をさがす』 を参考にした。写真は中日新聞社 ヘリ「あさづる」 から川柳晶寛氏が撮影したものを転載した≫
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