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諏訪原城跡
天正元年 (1573)、武田勝頼は遠州攻略の拠点とするために、牧ノ原台地に城を築いた。城内に諏訪大明神を祀ったことから 「諏訪原城」 の名がついたといわれている。この城は、駿河から遠江に向う要衝の地にあり、掛川の高天神城攻略のための役割を担っていた。
天正3年に武田軍が長篠の戦いで敗れると、諏訪原城は徳川家康によって攻め落とされ、牧野城と改名されてしまう。天正9年に、家康は武田に奪われていた高天神城を奪回する。翌年、勝頼は甲府にて自害し、武田家は滅亡することとなる。

諏訪原城は、武田流の築城術を駆使した壮大な山城である。武田流の築城方法などが記された 「甲陽軍鑑」 にもこの城のことが記されている。大きな特徴に 「丸馬出」 がある。これは、城の出入り口 「虎口」 の前に設けられた三日月型の堀のことで、防御にも出撃にも使われる拠点のことである。
今、NHKの大河ドラマで 「真田丸」 が人気を集めているが、真田幸村が大阪城の出城として構築し、徳川軍を大苦戦させた真田丸もこの形式だったと考えられている。
諏訪原城跡は、現在、国の史跡に指定されている。

天正3年に武田軍が長篠の戦いで敗れると、諏訪原城は徳川家康によって攻め落とされ、牧野城と改名されてしまう。天正9年に、家康は武田に奪われていた高天神城を奪回する。翌年、勝頼は甲府にて自害し、武田家は滅亡することとなる。

諏訪原城は、武田流の築城術を駆使した壮大な山城である。武田流の築城方法などが記された 「甲陽軍鑑」 にもこの城のことが記されている。大きな特徴に 「丸馬出」 がある。これは、城の出入り口 「虎口」 の前に設けられた三日月型の堀のことで、防御にも出撃にも使われる拠点のことである。
今、NHKの大河ドラマで 「真田丸」 が人気を集めているが、真田幸村が大阪城の出城として構築し、徳川軍を大苦戦させた真田丸もこの形式だったと考えられている。
諏訪原城跡は、現在、国の史跡に指定されている。

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