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島田宿の大堤
「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」 (箱根馬子唄) と謳われたように、大井川は東海道最大の難所であった。幕府は江戸や駿府の防御のために、あえて橋をつくらなかった。しかし、橋のない大井川を渡る旅人のために馬や人足の肩車などによる 「川越制度」 をつくった。それは元禄9年 (1696) のことである。
島田宿にはこの制度に基づき 「川庄屋」 や 「川会所」 が置かれ、川越賃銭の決定や渡渉順次の割り振りなどの業務運営を行なっていた。川会所をはじめとした建物は、昭和45年に 「島田宿大井川川越遺跡」 (国指定史蹟) としてこの地に復元された。

大井川に平行して、「島田大堤」 が走っている。慶長の大洪水 (1604~1605) により、それまでの堤が決壊して島田宿のすべてが押し流されてしまった。そのため、正保元年 (1644) 頃までに築かれたのがこの大堤である。同時に宿内に3本の灌漑用水も完成したので、米の生産高が以前の20倍にも増えたといわれている。大堤の規模は、高さ2間 (3.6m)、延長3150間 (約5.7km) と記録されている。現在は切れ切れとなって忘れられてしまったが、かつては島田宿や下流の村々にとって非常に重要な存在だったのである。

島田宿にはこの制度に基づき 「川庄屋」 や 「川会所」 が置かれ、川越賃銭の決定や渡渉順次の割り振りなどの業務運営を行なっていた。川会所をはじめとした建物は、昭和45年に 「島田宿大井川川越遺跡」 (国指定史蹟) としてこの地に復元された。

大井川に平行して、「島田大堤」 が走っている。慶長の大洪水 (1604~1605) により、それまでの堤が決壊して島田宿のすべてが押し流されてしまった。そのため、正保元年 (1644) 頃までに築かれたのがこの大堤である。同時に宿内に3本の灌漑用水も完成したので、米の生産高が以前の20倍にも増えたといわれている。大堤の規模は、高さ2間 (3.6m)、延長3150間 (約5.7km) と記録されている。現在は切れ切れとなって忘れられてしまったが、かつては島田宿や下流の村々にとって非常に重要な存在だったのである。

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