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落合宿の本陣とお助け釜
「木曽路はすべて山の中である」、島崎藤村の 『夜明け前』 の書き出しである。海岸沿いを走る南側の東海道に比べて、北側を進む中山道は、名の通りまさに山中の街道である。中山道が整備されたのは江戸時代初期・寛永年間 (1630年ごろ) のこと。総延長135里 (約520km)、69の宿場があった。東海道より距離は長く登り下りも多いが、大河川の渡しなどを避ける利点もあった。
落合宿は江戸から44番目、馬籠宿と中津川宿の間にある。幕末の頃の記録 「中山道宿村大概帳」 によれば、宿場町の長さ390mで家の数は75軒だったという。その中に、本陣と脇本陣がそれぞれ1軒、旅籠は14軒が含まれていた。

本陣は、文化年間の度重なる火災により焼失したが、文化15年 (1818) に復興された建物が今も残っている。下の写真に見る立派な門は、加賀前田家から寄進されたものである。文久元年 (1861) 皇女和宮内親王が徳川家に降嫁する折、御小休されるのに使われたほか、明治13年 (1880) の明治天皇行幸にも御小休のために使用されたという。
宿場の中ほどに丸太の小屋があり、その中に「助け合い大釜」が置かれている。和宮の大通行時には、4日間で2万6千人もの人々が通行したので、暖かいおもてなしをするためにかまどは炊き続けられたという。もともとは、寒天の原料の天草を煮るために作られたものであるが、今は様々なイベントにも使用されている。

落合宿は江戸から44番目、馬籠宿と中津川宿の間にある。幕末の頃の記録 「中山道宿村大概帳」 によれば、宿場町の長さ390mで家の数は75軒だったという。その中に、本陣と脇本陣がそれぞれ1軒、旅籠は14軒が含まれていた。

本陣は、文化年間の度重なる火災により焼失したが、文化15年 (1818) に復興された建物が今も残っている。下の写真に見る立派な門は、加賀前田家から寄進されたものである。文久元年 (1861) 皇女和宮内親王が徳川家に降嫁する折、御小休されるのに使われたほか、明治13年 (1880) の明治天皇行幸にも御小休のために使用されたという。
宿場の中ほどに丸太の小屋があり、その中に「助け合い大釜」が置かれている。和宮の大通行時には、4日間で2万6千人もの人々が通行したので、暖かいおもてなしをするためにかまどは炊き続けられたという。もともとは、寒天の原料の天草を煮るために作られたものであるが、今は様々なイベントにも使用されている。

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