Entries
円明寺の石鐘
名古屋の城下町は、武家町・寺社町・町人町がきちんと区画分けされていた。城の南には、碁盤割と呼ばれる町人町があり、そこを取り囲むように武家屋敷が配された。寺社は、大須から熱田にかけての南側と、大曽根方面への東側に集中していた。
東区泉三丁目に、松嶋山円明寺という真宗大谷派のお寺がある。延宝3年 (1675) に、伊勢の国長島からこの地に移されたという歴史をもつ。本堂は、昭和20年の空襲で焼失したので、今は鉄筋コンクリート造りであるが、門と鐘楼は焼失を免れ、木造のまま残っている。

鐘楼の鐘はと見ると、なんと白い御影石づくりではないか。撞木は吊下げられてはいるが、鐘を突いても音は出ないという。この不思議な鐘の理由が、近くの説明版に語られている。要約すると、「戦時中の金属回収のため、昭和17年に応召(梵鐘の場合は供出といわずに応召といった)された。そのとき代わりに架けられたのが石造りの鐘である。戦争が終わると、元のように銅の鐘を架ける計画が起こったが、住職は「懺悔」のためそのまま残すことを選んだ。」 のだという。

東区泉三丁目に、松嶋山円明寺という真宗大谷派のお寺がある。延宝3年 (1675) に、伊勢の国長島からこの地に移されたという歴史をもつ。本堂は、昭和20年の空襲で焼失したので、今は鉄筋コンクリート造りであるが、門と鐘楼は焼失を免れ、木造のまま残っている。

鐘楼の鐘はと見ると、なんと白い御影石づくりではないか。撞木は吊下げられてはいるが、鐘を突いても音は出ないという。この不思議な鐘の理由が、近くの説明版に語られている。要約すると、「戦時中の金属回収のため、昭和17年に応召(梵鐘の場合は供出といわずに応召といった)された。そのとき代わりに架けられたのが石造りの鐘である。戦争が終わると、元のように銅の鐘を架ける計画が起こったが、住職は「懺悔」のためそのまま残すことを選んだ。」 のだという。

- 関連記事
-
- 三島熔岩流 (2016/09/05)
- 円明寺の石鐘 (2016/08/18)
- 馬籠宿 (2016/06/29)
コメント
コメントの投稿
トラックバック
- トラックバック URL
- http://chubu-fukken.com/tb.php/304-47d2d920
- この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)