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飯田市塚原古墳群
対岸に南アルプスとその手前の伊那山脈を望む、天竜川右岸の河岸段丘に16基の古墳が築かれていた。塚原古墳群という。地名の塚原は、古くから「墓」すなわち「塚」の存在が知られていて、塚のたくさんある「原」であることを示している。
下の写真は、その中心の「塚原二子塚古墳」で、長さ76mの前方後円墳である。この他に、「鏡塚」や「鎧塚」 など5基の古墳が残されている。そのうちの3基は、長さ50mほどの 「帆立貝型古墳」 という特殊な平面形をしている。

地元の小学校に保管されている馬具などの出土品からみると、造られた年代は、5世紀後半から6世紀の前半ではないかと思われている。この時代、この地の豪族は、馬の生産を通じて中央の政権と深く関わっていたようである。日本全体で見ると、このような狭い山間部に、これほどの古墳文化が花開いていたことは、特異な存在であったと考えられている。
ソバなどの花が咲く畑の中に、綺麗に草刈された “二子山” があった。周辺には標識やマップの付いた説明版があり、塚の裾にはサルビアの花も植えられていた。

下の写真は、その中心の「塚原二子塚古墳」で、長さ76mの前方後円墳である。この他に、「鏡塚」や「鎧塚」 など5基の古墳が残されている。そのうちの3基は、長さ50mほどの 「帆立貝型古墳」 という特殊な平面形をしている。

地元の小学校に保管されている馬具などの出土品からみると、造られた年代は、5世紀後半から6世紀の前半ではないかと思われている。この時代、この地の豪族は、馬の生産を通じて中央の政権と深く関わっていたようである。日本全体で見ると、このような狭い山間部に、これほどの古墳文化が花開いていたことは、特異な存在であったと考えられている。
ソバなどの花が咲く畑の中に、綺麗に草刈された “二子山” があった。周辺には標識やマップの付いた説明版があり、塚の裾にはサルビアの花も植えられていた。

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