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中山道 下ノ諏訪宿
下ノ諏訪宿は、中山道と甲州街道の接点にあり、交通や軍事上の重要な地であった。元は、諏訪大社の門前町や温泉地として発展したが、江戸時代になって中山道六十九次の宿場町として賑わった。町並の長さは4町50間 (約530m)、甲州街道の分を含めると8町49間 (約960m) になるという。
宿場の中ほどに問屋場を兼ねた本陣が置かれ、大名や公家などの宿となった。文久9年 (1861) の皇女和宮が降嫁のため江戸に向かう際には、この本陣・岩波家にお泊りになった。また、明治13年に明治天皇が各地をご巡幸されたときにも、小休所として利用された。現在も建物や庭園の一部が残されていて、町の文化財に指定されている。

両街道が交差する辺りに 「下諏訪町立歴史民族資料館」 があり、宿場や皇女和宮についての資料を展示している。また、建物そのものが明治初期に建てられた旅籠としての展示物になっている。街道に面する表側は「出梁造り」といい、一階の梁を突き出して二階を乗せたもので、旅籠屋だけに許されていた。一階にも二階にも、細かい格子が付けられている。入口には板でできた 「大戸」 が嵌められていて、大名などの荷物の出し入れには利用されたが、普段は 「くぐり戸」 が使われていた。

宿場の中ほどに問屋場を兼ねた本陣が置かれ、大名や公家などの宿となった。文久9年 (1861) の皇女和宮が降嫁のため江戸に向かう際には、この本陣・岩波家にお泊りになった。また、明治13年に明治天皇が各地をご巡幸されたときにも、小休所として利用された。現在も建物や庭園の一部が残されていて、町の文化財に指定されている。

両街道が交差する辺りに 「下諏訪町立歴史民族資料館」 があり、宿場や皇女和宮についての資料を展示している。また、建物そのものが明治初期に建てられた旅籠としての展示物になっている。街道に面する表側は「出梁造り」といい、一階の梁を突き出して二階を乗せたもので、旅籠屋だけに許されていた。一階にも二階にも、細かい格子が付けられている。入口には板でできた 「大戸」 が嵌められていて、大名などの荷物の出し入れには利用されたが、普段は 「くぐり戸」 が使われていた。

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