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中山道太田宿の脇本陣
木曽川が飛騨川と合流し、山地を出たところに美濃太田の平地がある。木曽川は再び鵜沼と犬山の谷間を抜けていよいよ濃尾平野へと流れ出すのである。中山道はここで木曽川を渡ることとなるが、昭和2年 (1927) に太田橋が架かるまでは渡し舟に頼っていた。歌川広重の浮世絵にもその様子が描かれている。平常時で85間 (約155m) もある「太田の渡し」は、中山道の三大難所といわれていた。
太田の宿は、東西の長さ6町余 (約700m)、本陣・脇本陣・問屋場・旅籠屋など118軒が軒を連ねていた。また宿の西には 「尾張殿地方役人出張役所」 が置かれていた。木曽川を所領する尾張藩にとってこの地は、木曽川を渡った対岸 「美濃」 への橋頭堡であり、中山道を押さえる重要な拠点だったのであろう。

宿場の中ほどに、元本陣の立派な門 (下の写真) が残されている。これは、皇女和宮が徳川14代家茂に嫁ぐため下向した際に新築されたものだという。本陣の門の向い側にある脇本陣は、ほぼ原型のまま保存・使用されている。「旧太田脇本陣林家住宅」 と称し、国の重要文化財に指定されている。主屋は明和6年 (1769) に造られ、表門や袖塀・裏の土蔵などは天保2年 (1831)に建築されたという。主屋の両端には 「うだつ」 があり、この建物の権威を示している。
この脇本陣には、歴史に残る多くの旅人が宿泊した。槍ヶ岳に初めて登頂して開山した播隆上人は、度々太田宿を訪れ、この林家で没することとなった。板垣退助は明治14年、岐阜で遊説中に刺客に刺され “板垣死すとも自由は死せず” と絶叫して亡くなったが、その前日に逗留したのもこの宿であった。

(ご当主の林由是氏は、昨年末に97歳でお亡くなりになりました。氏は、名古屋花菖蒲会の重鎮として長く会を支えられました。ここに哀悼の意を表します。)
太田の宿は、東西の長さ6町余 (約700m)、本陣・脇本陣・問屋場・旅籠屋など118軒が軒を連ねていた。また宿の西には 「尾張殿地方役人出張役所」 が置かれていた。木曽川を所領する尾張藩にとってこの地は、木曽川を渡った対岸 「美濃」 への橋頭堡であり、中山道を押さえる重要な拠点だったのであろう。

宿場の中ほどに、元本陣の立派な門 (下の写真) が残されている。これは、皇女和宮が徳川14代家茂に嫁ぐため下向した際に新築されたものだという。本陣の門の向い側にある脇本陣は、ほぼ原型のまま保存・使用されている。「旧太田脇本陣林家住宅」 と称し、国の重要文化財に指定されている。主屋は明和6年 (1769) に造られ、表門や袖塀・裏の土蔵などは天保2年 (1831)に建築されたという。主屋の両端には 「うだつ」 があり、この建物の権威を示している。
この脇本陣には、歴史に残る多くの旅人が宿泊した。槍ヶ岳に初めて登頂して開山した播隆上人は、度々太田宿を訪れ、この林家で没することとなった。板垣退助は明治14年、岐阜で遊説中に刺客に刺され “板垣死すとも自由は死せず” と絶叫して亡くなったが、その前日に逗留したのもこの宿であった。

(ご当主の林由是氏は、昨年末に97歳でお亡くなりになりました。氏は、名古屋花菖蒲会の重鎮として長く会を支えられました。ここに哀悼の意を表します。)
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