Entries
伊勢国分寺跡
国分寺は天平13年 (741)、聖武天皇の詔により各国官営寺院として設置されたものである。三重県には、国の指定する 「国分寺跡」 が2か所ある。ひとつは、上野市の 「伊賀国分寺」 で、もうひとつがこの 「伊勢国分寺」 である。鈴鹿川左岸の海抜43mの高台に位置し、水害の恐れのない眺望のよいところにある。長い歴史の変遷を経て、奈良時代の規模や形態は失われているが、発掘によりその区域や一部の形態が明らかになっている。
中央部に講堂跡と思われる土壇や境内西端の土塁の一部が残っていて、当時の様子を偲ぶことができる。講堂は、仏教の講義や説教が行なわれる建物で、寺院の中心的施設ある。旧地表から30cmほどの高さの基壇上には、元の位置を保ってはいないものの、数点の礎石が置かれている。

基壇の規模は、東西33.2m×南北21.2mと広大である。南面には、幅2m×長さ1.8mの階段が3か所あり、その規模から考えると、基壇の高さは1mを越えていたものと考えられている。創建時の基壇化粧 (外装) の資材は、「台形塼 (せん) 」 の2段積みであったことが確認されている。「台形塼」 とは、断面が台形の煉瓦のことで、この伊勢国分寺独特のものだという。
遺跡中央に2基の石碑が立っていて、古い方は大正11年10月、史跡に指定されたときに建てられたものである。国道から細い農村集落の道を進むと、さらに細い道があって、その角に 「史蹟国分寺跡道」 と刻まれた道標が立っていた。

中央部に講堂跡と思われる土壇や境内西端の土塁の一部が残っていて、当時の様子を偲ぶことができる。講堂は、仏教の講義や説教が行なわれる建物で、寺院の中心的施設ある。旧地表から30cmほどの高さの基壇上には、元の位置を保ってはいないものの、数点の礎石が置かれている。

基壇の規模は、東西33.2m×南北21.2mと広大である。南面には、幅2m×長さ1.8mの階段が3か所あり、その規模から考えると、基壇の高さは1mを越えていたものと考えられている。創建時の基壇化粧 (外装) の資材は、「台形塼 (せん) 」 の2段積みであったことが確認されている。「台形塼」 とは、断面が台形の煉瓦のことで、この伊勢国分寺独特のものだという。
遺跡中央に2基の石碑が立っていて、古い方は大正11年10月、史跡に指定されたときに建てられたものである。国道から細い農村集落の道を進むと、さらに細い道があって、その角に 「史蹟国分寺跡道」 と刻まれた道標が立っていた。

- 関連記事
-
- 能褒野王塚古墳 (2017/04/22)
- 伊勢国分寺跡 (2017/04/11)
- 半田市亀崎の潮干祭 (2017/02/06)
コメント
コメントの投稿
トラックバック
- トラックバック URL
- http://chubu-fukken.com/tb.php/358-21b5667f
- この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)