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野村一里塚
亀山宿と関宿のちょうど中間点に 「野村一里塚」 がある。このあたりの旧東海道の沿道は住宅地となっており、いにしえのイメージは湧いてこないが、この一里塚の存在でここに街道が走っていたことを思い知らされる。
とにかく巨大なムクノキである。幹周り約6m、高さは33m、さえぎる物がないので枝を四方に伸ばしている。土盛りもしっかり残っていて、巨木の根が塚を鷲づかみにしている。慶長9年 (1604) 家康の命により、亀山城主・関氏が築造したものと言われている。もとは街道を挟んで両側に一里塚があった。左側はエノキで、“左榎・右椋”と言われていたが、今はムクノキだけになってしまった。

このブログは、2年前から 「旧東海道のシリーズ」 を書き連ねてきました。最初の稿で名古屋・熱田の 「笠寺一里塚」 を取り上げました。そこから東へ向かい、尾張・三河・遠江・駿河を歩き、東の終点は江戸日本橋まで行き着きました。その後は桑名から伊勢の国を西に向かい、ここ関宿まで辿り着くことができました。
せっかくですので、西の出発点・京都三条大橋も尋ねてみたいと思っています。旧東海道の見て歩きはこれで終わりますが、4年間続けている 「土木文化見てある記」 は、まだまだ続きますのでご愛読のほどよろしくお願いします。下の写真は出発点の 「笠寺一里塚」 のエノキの大木です。現存する一里塚としては、この野村の一里塚とともに双璧だと思います。

とにかく巨大なムクノキである。幹周り約6m、高さは33m、さえぎる物がないので枝を四方に伸ばしている。土盛りもしっかり残っていて、巨木の根が塚を鷲づかみにしている。慶長9年 (1604) 家康の命により、亀山城主・関氏が築造したものと言われている。もとは街道を挟んで両側に一里塚があった。左側はエノキで、“左榎・右椋”と言われていたが、今はムクノキだけになってしまった。

このブログは、2年前から 「旧東海道のシリーズ」 を書き連ねてきました。最初の稿で名古屋・熱田の 「笠寺一里塚」 を取り上げました。そこから東へ向かい、尾張・三河・遠江・駿河を歩き、東の終点は江戸日本橋まで行き着きました。その後は桑名から伊勢の国を西に向かい、ここ関宿まで辿り着くことができました。
せっかくですので、西の出発点・京都三条大橋も尋ねてみたいと思っています。旧東海道の見て歩きはこれで終わりますが、4年間続けている 「土木文化見てある記」 は、まだまだ続きますのでご愛読のほどよろしくお願いします。下の写真は出発点の 「笠寺一里塚」 のエノキの大木です。現存する一里塚としては、この野村の一里塚とともに双璧だと思います。

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