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刈谷の「依佐美送信所」跡地
かつて刈谷の田園地帯に、高さ250m、名古屋のテレビ等よりはるかに高い鉄塔が聳えていた。「依佐美送信所」 と呼ばれ、8基の鉄塔が長さ1800m、16条の長波アンテナを支えていた。周りに高い建物もないので遠くからでもよく見えて、一種のランドマークにもなっていた。
第一次世界大戦が始まった大正3年当時は、日本と海外との通信は3本の海底ケーブルのみで、その全てが欧米の通信会社の所有であった。そうした中、大正14年に逓信省が、依佐美村に送信所の建設を決定し、昭和3年着工、4年に完成する運びとなった。同年にワルシャワへの送信が開始されたのである。一時期、短波需要が拡大し依佐美の役割は減ったが、潜水艦への水中の通信のためには長波の方が有利なため、再び利用が活発となった。(写真左は、平成9年に撤去された後に残された鉄塔の基部と記念館、右は、直流の発電機である。)

第二次大戦後は在日アメリカ海軍に接収され、米軍潜水艦の通信に使用されることとなった。しかし、平成6年には役割を終えて日本に返還され、9年に撤去されることとなったのである。跡地は、基礎だけのモニュメントが残され、記念館とともに歴史の語り部となっている。
約3.5haという広大な敷地は、公園として一般に開放され、遊具広場やイングリッシュガーデンとなっている。利用者の休憩や、ボランティアの人たちの集いのための 「フローラルプラザ」 には、小さなサンルームがあって、サボテンなどが植えられていた。

第一次世界大戦が始まった大正3年当時は、日本と海外との通信は3本の海底ケーブルのみで、その全てが欧米の通信会社の所有であった。そうした中、大正14年に逓信省が、依佐美村に送信所の建設を決定し、昭和3年着工、4年に完成する運びとなった。同年にワルシャワへの送信が開始されたのである。一時期、短波需要が拡大し依佐美の役割は減ったが、潜水艦への水中の通信のためには長波の方が有利なため、再び利用が活発となった。(写真左は、平成9年に撤去された後に残された鉄塔の基部と記念館、右は、直流の発電機である。)

第二次大戦後は在日アメリカ海軍に接収され、米軍潜水艦の通信に使用されることとなった。しかし、平成6年には役割を終えて日本に返還され、9年に撤去されることとなったのである。跡地は、基礎だけのモニュメントが残され、記念館とともに歴史の語り部となっている。
約3.5haという広大な敷地は、公園として一般に開放され、遊具広場やイングリッシュガーデンとなっている。利用者の休憩や、ボランティアの人たちの集いのための 「フローラルプラザ」 には、小さなサンルームがあって、サボテンなどが植えられていた。

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