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忠節橋
忠節とか忖度という言葉は、とっくの昔に死語になっていると思っていた。ところが最近、これらがきちんと生き残っており、忠節を誓ったり忖度を尽くさないと出世できないということが分かってきた。近々第7版が出版される 「広辞苑」 によれば、「忠節」は “君につくす節義” であり、「君」 とは国家元首や自分の仕える主君のことである。

長良川が金華山の山裾を何度か蛇行するあたり、長良橋と金華橋の下流に 「忠節橋」 が銀色に輝いている。明治になるまで、長良川には橋が架かっておらず 「忠節の渡し」 という渡し舟で結ばれていた。明治7年と14年に二本の橋が架けられたが、両岸の往来は頻繁となり更なる新橋が求められた。明治17年、今より270mほど上流に初代の忠節橋が架けられた。通行料が必要で、人は5厘、馬車は2銭であったという。
その後、老朽化に伴い、明治31年と45年に架け替えが行なわれた。現在の橋が完成したのは昭和23年のことである。戦時中に着工されたが、コンクリートや鉄鋼などの資材が思うに任せず、戦後になってようやく完成したのである。形式はブレースト・リブ・バランスト・タイドアーチという長い名である。平成17年までは、路面電車も走る併用橋であった。全長266m、幅員17.6m、戦後我が国で造られた最初の大規模橋梁である。


長良川が金華山の山裾を何度か蛇行するあたり、長良橋と金華橋の下流に 「忠節橋」 が銀色に輝いている。明治になるまで、長良川には橋が架かっておらず 「忠節の渡し」 という渡し舟で結ばれていた。明治7年と14年に二本の橋が架けられたが、両岸の往来は頻繁となり更なる新橋が求められた。明治17年、今より270mほど上流に初代の忠節橋が架けられた。通行料が必要で、人は5厘、馬車は2銭であったという。
その後、老朽化に伴い、明治31年と45年に架け替えが行なわれた。現在の橋が完成したのは昭和23年のことである。戦時中に着工されたが、コンクリートや鉄鋼などの資材が思うに任せず、戦後になってようやく完成したのである。形式はブレースト・リブ・バランスト・タイドアーチという長い名である。平成17年までは、路面電車も走る併用橋であった。全長266m、幅員17.6m、戦後我が国で造られた最初の大規模橋梁である。

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