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田原城跡と田原市博物館
田原城が築かれたのは、明文12年 (1480) のことである。この時期というのは後土御門天皇の御世で、戦国時代のきっかけともなった応仁の乱 (応仁元年~文明9年) の直後のことである。この城もその荒波に飲まれ、戦国末期には今川義元に攻められたり、徳川家康に攻略されたりした。
江戸時代に入ってからは安定して三宅氏の治めるところとなったが、明治になって廃城となり建物は取り壊されてしまった。平成になって桜門とその左右の土塀が復興された。平成5年に桜門を入ったすぐ左手に、田原市博物館が開館した。

この博物館には、田原藩をはじめとする歴史資料が豊富に収蔵されている。私が訪ねたときには、田原藩の家老職をも務めた南画家・渡辺崋山の作品や資料がたくさん展示されていた。崋山はかの有名な谷文晁に師事し、後に西洋画法も取り入れた独自の様式を完成させた。
崋山は蘭学者として西洋事情にも明るく、天保10年 (1839) に幕府が外国船を排斥しようとしたモリソン号事件や、鎖国の非を責めた「慎機論(しんきろん)」を記したため、幕府に蟄居を命ぜられてしまった。蘭方医として有名な高野長英も捕らえられて獄に繋がれることとなったこの言論弾圧事件は、「蛮社の獄」 と呼ばれている。

江戸時代に入ってからは安定して三宅氏の治めるところとなったが、明治になって廃城となり建物は取り壊されてしまった。平成になって桜門とその左右の土塀が復興された。平成5年に桜門を入ったすぐ左手に、田原市博物館が開館した。

この博物館には、田原藩をはじめとする歴史資料が豊富に収蔵されている。私が訪ねたときには、田原藩の家老職をも務めた南画家・渡辺崋山の作品や資料がたくさん展示されていた。崋山はかの有名な谷文晁に師事し、後に西洋画法も取り入れた独自の様式を完成させた。
崋山は蘭学者として西洋事情にも明るく、天保10年 (1839) に幕府が外国船を排斥しようとしたモリソン号事件や、鎖国の非を責めた「慎機論(しんきろん)」を記したため、幕府に蟄居を命ぜられてしまった。蘭方医として有名な高野長英も捕らえられて獄に繋がれることとなったこの言論弾圧事件は、「蛮社の獄」 と呼ばれている。

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