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常滑市の「正住院」
尾張名所図会は、江戸末期から明治初期にかけて刊行された地誌で、尾張国8郡の名所が文章と絵図により紹介されている。前編7巻、後編6巻、合計13巻からなり、その前編第6巻は知多郡となっていてそこに 「正住院」 も載っている。
今も常滑駅のすぐ南にある 「正住院」 の絵を見ると、山門から縦に並ぶ本堂や書院、左側の六角堂や手水屋、右の鐘楼や庫裏が精緻に描かれている。本堂横のこんもりした森や書院裏に広がる伊勢湾の様子、対岸の伊勢の国も明瞭である。

正住院を訪ねてみて驚いた。山門や土塀の様子 ①、六角堂や手水屋 ② とその裏山、本堂 ③ や鐘楼などの姿が 「図会」 そのままに残っているのである。絵では書院により隠れてしまっているが、海岸際の石積み ④ もそのままのようである。私の想像では、この石積みは海岸の波に洗われる堤防だったのではと思われる。

書院の横に小さな看板が立てられていて、近くの庭石 ⑤ についての説明が書かれている。それによれば、この石は 「徳川家康公腰掛けの石」 であるという。天正10年 (1582) 6月2日、「本能寺の変」 の折、家康は堺から京へ向かっていた。異変を聞いた家康は危険を感じ、伊賀の山を越えて伊勢の国白子から船に乗り、この常滑の湊に辿り着いたのである。命からがら、何とか一息ついて座ったのがこの庭石だったのであろう。

今も常滑駅のすぐ南にある 「正住院」 の絵を見ると、山門から縦に並ぶ本堂や書院、左側の六角堂や手水屋、右の鐘楼や庫裏が精緻に描かれている。本堂横のこんもりした森や書院裏に広がる伊勢湾の様子、対岸の伊勢の国も明瞭である。

正住院を訪ねてみて驚いた。山門や土塀の様子 ①、六角堂や手水屋 ② とその裏山、本堂 ③ や鐘楼などの姿が 「図会」 そのままに残っているのである。絵では書院により隠れてしまっているが、海岸際の石積み ④ もそのままのようである。私の想像では、この石積みは海岸の波に洗われる堤防だったのではと思われる。

書院の横に小さな看板が立てられていて、近くの庭石 ⑤ についての説明が書かれている。それによれば、この石は 「徳川家康公腰掛けの石」 であるという。天正10年 (1582) 6月2日、「本能寺の変」 の折、家康は堺から京へ向かっていた。異変を聞いた家康は危険を感じ、伊賀の山を越えて伊勢の国白子から船に乗り、この常滑の湊に辿り着いたのである。命からがら、何とか一息ついて座ったのがこの庭石だったのであろう。

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