Entries
西尾城
西尾城は昔、西条城と呼ばれた。創建は12世紀といわれるが、中世までの規模は定かでなく、城としての形態を整えたのは戦国末期と考えられている。永禄のころ (1560年代) は、今川方が城主であったが、桶狭間の戦いの後、松平方 (後の徳川) の酒井氏が攻め寄せて城を奪取し、「西尾城」 と改名した。
天正13年 (1585) に酒井氏は、城の大改修を行なった。面積を広げ、深い堀や高い石垣を築き、数か所の櫓や城門を設けた。このときに、二の丸に新しい天守閣を建て、旧天守は本丸の隅櫓として存続させている。

明治6年 (1873) に出された廃城令 (正式には 「全国城郭存廃ノ処分並兵営地撰定方」 という) により、明治5年から10年にかけて、建物の払い下げや塁濠の破壊などが行なわれた。平成になって歴史公園として位置づけられ、本丸の 「丑寅櫓」 (上の写真) や二之丸御殿の正門である 「鍮石門( ちゅうじゃくもん)」 (下の写真) の再建が行なわれた。
二の丸跡には、京都から 「旧近衛邸」 が移築されている。この建物は、摂家筆頭の近衛家に嫁いだ夫人の縁で、島津家により江戸後期に建てられたものである。書院と茶室からなっており、庭園も美しく整備されていて、お茶会などの催しにも利用できる。また、お茶のまち西尾らしく、いつでもお抹茶のサービスを楽しむことができる。

天正13年 (1585) に酒井氏は、城の大改修を行なった。面積を広げ、深い堀や高い石垣を築き、数か所の櫓や城門を設けた。このときに、二の丸に新しい天守閣を建て、旧天守は本丸の隅櫓として存続させている。

明治6年 (1873) に出された廃城令 (正式には 「全国城郭存廃ノ処分並兵営地撰定方」 という) により、明治5年から10年にかけて、建物の払い下げや塁濠の破壊などが行なわれた。平成になって歴史公園として位置づけられ、本丸の 「丑寅櫓」 (上の写真) や二之丸御殿の正門である 「鍮石門( ちゅうじゃくもん)」 (下の写真) の再建が行なわれた。
二の丸跡には、京都から 「旧近衛邸」 が移築されている。この建物は、摂家筆頭の近衛家に嫁いだ夫人の縁で、島津家により江戸後期に建てられたものである。書院と茶室からなっており、庭園も美しく整備されていて、お茶会などの催しにも利用できる。また、お茶のまち西尾らしく、いつでもお抹茶のサービスを楽しむことができる。

- 関連記事
-
- 広島の原爆ドーム (2018/08/06)
- 西尾城 (2018/07/26)
- 西尾市の岩瀬文庫 その2 (2018/07/22)
コメント
コメントの投稿
トラックバック
- トラックバック URL
- http://chubu-fukken.com/tb.php/477-b2893bcb
- この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)