Entries
矢作古川分派施設
矢作川は、長野県平谷村に端を発し、愛知県の豊田市や岡崎市、安城市や西尾市を流れて三河湾に注ぐ。延長117km、流域面積1830平方km、標高差約1900mの一級河川である。かつては、上流からの木材や下流からの塩などが行き来する、重要な交易路であった。
戦国時代に入ると、三河の国も織田・今川・松平 (徳川) などの戦国大名が覇権を争う舞台となった。大名たちは領土を拡大するだけでなく、勢力を増大するために領土内の農地開発にも取り組んだ。洪水に悩まされてきた矢作川では、大規模な治水工事も行なわれるようになった。

安土桃山時代 (1590年ごろ) には、秀吉の命により築堤工事が行なわれ、網上に乱流していた矢作川は徐々に一本化された。しかし、八ツ面山 (やつおもてやま) より下流は、依然として洪水が治まることはなかった。江戸時代になって米津方面に向けて新川が開削され、ようやく水害は防止されるようになった。
上の写真は新川と古川の分岐地点、手前が古川である。平成28年になって、古川の始点に新たな洪水調整のための施設ができた。「矢作古川分派施設」という。高さ約16m、幅約66mの巨大なコンクリート構造物である。この水門により流量を調節することができるようになり、下流域はより安全な地域となった。

戦国時代に入ると、三河の国も織田・今川・松平 (徳川) などの戦国大名が覇権を争う舞台となった。大名たちは領土を拡大するだけでなく、勢力を増大するために領土内の農地開発にも取り組んだ。洪水に悩まされてきた矢作川では、大規模な治水工事も行なわれるようになった。

安土桃山時代 (1590年ごろ) には、秀吉の命により築堤工事が行なわれ、網上に乱流していた矢作川は徐々に一本化された。しかし、八ツ面山 (やつおもてやま) より下流は、依然として洪水が治まることはなかった。江戸時代になって米津方面に向けて新川が開削され、ようやく水害は防止されるようになった。
上の写真は新川と古川の分岐地点、手前が古川である。平成28年になって、古川の始点に新たな洪水調整のための施設ができた。「矢作古川分派施設」という。高さ約16m、幅約66mの巨大なコンクリート構造物である。この水門により流量を調節することができるようになり、下流域はより安全な地域となった。

- 関連記事
-
- 長良川の鵜飼 (2018/10/17)
- 矢作古川分派施設 (2018/09/11)
- 湯谷の「水車製材所」跡 (2018/08/26)
コメント
コメントの投稿
トラックバック
- トラックバック URL
- http://chubu-fukken.com/tb.php/483-02b61d93
- この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)