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岐阜城と金華山ロープウェー
岐阜城が初めて築かれたのは、鎌倉時代の建仁元年 (1201) だといわれている。しかし、日本史に大きく登場するのは、斉藤道三が居城とした戦国時代になってからのことである。道三は天文8年 (1539) に入城し、続いて子の義龍、孫の龍興が城主となった。
永禄10年(1567) に斉藤龍興を破った織田信長が城主となり、名を稲葉山城から岐阜城へと改めた。城下では 「楽市」 を保護し、「天下布武」 を掲げて天下統一の本拠地とした。山頂にある天守閣からは、長良川流域の山々や濃尾平野を一望することができる。信長は、この景色を眺めながら、天下を治める想を練ったのであろう。

慶長5年 (1600) の関が原の戦いでは、城主・織田秀信は豊臣方に味方したので徳川方に攻められ、開城するに至った。翌慶長6年に岐阜城は廃城となって取り壊され、それ以降江戸時代には建てられることはなかった。明治末になって木造の模擬城が建てられたが、昭和18年に焼失してしまった。現在の天守閣は、昭和31年に鉄筋コンクリートで再建されたものである。
金華山ロープウェーは、麓の岐阜公園からの標高差330mを4分で登るものである。山頂の天守閣からは360度の視界が開け、はるか伊勢湾までも望むことができる。真っ平な平野の向うに僅かに見える突起物は、名古屋駅の超高層ビル群である。


永禄10年(1567) に斉藤龍興を破った織田信長が城主となり、名を稲葉山城から岐阜城へと改めた。城下では 「楽市」 を保護し、「天下布武」 を掲げて天下統一の本拠地とした。山頂にある天守閣からは、長良川流域の山々や濃尾平野を一望することができる。信長は、この景色を眺めながら、天下を治める想を練ったのであろう。

慶長5年 (1600) の関が原の戦いでは、城主・織田秀信は豊臣方に味方したので徳川方に攻められ、開城するに至った。翌慶長6年に岐阜城は廃城となって取り壊され、それ以降江戸時代には建てられることはなかった。明治末になって木造の模擬城が建てられたが、昭和18年に焼失してしまった。現在の天守閣は、昭和31年に鉄筋コンクリートで再建されたものである。
金華山ロープウェーは、麓の岐阜公園からの標高差330mを4分で登るものである。山頂の天守閣からは360度の視界が開け、はるか伊勢湾までも望むことができる。真っ平な平野の向うに僅かに見える突起物は、名古屋駅の超高層ビル群である。


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