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瀬戸のホフマン工事
アメリゴ・ホフマン(1875~1945)は、イタリア生まれの森林学者である。明治37年に招かれ、東京帝国大学の教師として治山工事などを指導した。明治42年(1909)に帰国した後、イタリア森林庁林野局の総局長などを務めている。
当時尾張地方、特に瀬戸一帯にはハゲ山が広がっていた。陶土の採掘や窯での燃料として森林が伐採されたのである。愛知県がハゲ山復旧のための設計を東京帝国大学農科大学に依頼したところ、2人の学生の卒業論文が提出され、その方針に従って治山工事が進められた。

この設計は、ホフマンが指導したので、彼の名を採って「ホフマン工事」と呼ばれている。この工事は、5か所の「土堰堤」と45か所の「柳柵」を設置するものである。当時オーストリアやフランスなどで用いられていた手法で、山肌への植栽は行なわず、侵食や崩壊を防ぐだけで、自然に森林を蘇生する方策である。
この地を歩いてみると、今はマツやコナラなどの雑木林が広がっており、赤土や粘土の地肌を見ることはできない。現在では、さらに進化した治山技術が行なわれているが、ホフマンの工事はその後の発展に大きな影響を与えたと言われている。(写真は全て、現地の説明看板から転用)


当時尾張地方、特に瀬戸一帯にはハゲ山が広がっていた。陶土の採掘や窯での燃料として森林が伐採されたのである。愛知県がハゲ山復旧のための設計を東京帝国大学農科大学に依頼したところ、2人の学生の卒業論文が提出され、その方針に従って治山工事が進められた。

この設計は、ホフマンが指導したので、彼の名を採って「ホフマン工事」と呼ばれている。この工事は、5か所の「土堰堤」と45か所の「柳柵」を設置するものである。当時オーストリアやフランスなどで用いられていた手法で、山肌への植栽は行なわず、侵食や崩壊を防ぐだけで、自然に森林を蘇生する方策である。
この地を歩いてみると、今はマツやコナラなどの雑木林が広がっており、赤土や粘土の地肌を見ることはできない。現在では、さらに進化した治山技術が行なわれているが、ホフマンの工事はその後の発展に大きな影響を与えたと言われている。(写真は全て、現地の説明看板から転用)


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