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名古屋城本丸御殿
名古屋城・本丸御殿の復元が完成した。昭和20年の大空襲で天守閣とともに焼け落ち、長く礎石だけしか見られない状態が続いてきた。平成21年から復元工事が始まり、昨年6月に完成したのである。天守閣に連なる小天守の東、ま新しい素木の建物がそれである。
復元に当たっては、昭和初期に作られた実測図が残っていたのが幸いし、江戸時代の文献なども駆使して史実に忠実な建物が再現された。近世書院造りで総面積3100㎡にもおよぶ。屋根は「こけら葺き」、杉板を薄く割って竹釘で打ち付けて重ねていく。

当初は、慶長20年(1615)に尾張藩主の住居かつ藩の政庁として、徳川家康の命により建てられたものである。尾張藩は、初代義直(家康の九男)が木曽山を拝領したこともあって、木曽の桧をふんだんに使用することができた。今回も木曽桧をたくさん使っている。
下左は玄関の車寄、中へ入ると「一之間」「二之間」があり、来訪者を威圧するような虎や豹の襖絵がある。奥にある「上洛殿」(下右)は三代将軍・家光上洛に合わせて増築した建物で、贅を尽したつくりとなっている。格天井、欄間、襖絵などの豪華さに圧倒されそうになる。


復元に当たっては、昭和初期に作られた実測図が残っていたのが幸いし、江戸時代の文献なども駆使して史実に忠実な建物が再現された。近世書院造りで総面積3100㎡にもおよぶ。屋根は「こけら葺き」、杉板を薄く割って竹釘で打ち付けて重ねていく。

当初は、慶長20年(1615)に尾張藩主の住居かつ藩の政庁として、徳川家康の命により建てられたものである。尾張藩は、初代義直(家康の九男)が木曽山を拝領したこともあって、木曽の桧をふんだんに使用することができた。今回も木曽桧をたくさん使っている。
下左は玄関の車寄、中へ入ると「一之間」「二之間」があり、来訪者を威圧するような虎や豹の襖絵がある。奥にある「上洛殿」(下右)は三代将軍・家光上洛に合わせて増築した建物で、贅を尽したつくりとなっている。格天井、欄間、襖絵などの豪華さに圧倒されそうになる。


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