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清正の銅像
名古屋城に加藤清正の銅像が2つある。ひとつは、国道22号線がお城にぶつかって左へ折れていく地点。天守閣へ向かって視界が誘導されていく中央にどっかりと座っている。「加藤清正像」の銘がある。左に見えるのは「能楽堂」である。
ふたつめは、二之丸庭園から進んで東南隅櫓を見る左側、大きな石の上の立ち姿で槍と扇をもっている。銘は「清正公石曳きの像」となっている。慶長15年(1610)の名古屋城築城に際して、石垣造りに活躍した清正を讃えて建造されたものであろう。

さらにもうひとつ清正にかかわる記念物がある。二之丸から東二之門をくぐったところの巨石「清正石」である。ここは「本丸搦手枡形」といい、裏門から攻める敵方への備えの場所に当たる。この枡形の築造を担当したのは黒田長政であるが、この巨石は城普請の名手清正が運んだのだろうと言い伝えられている。
清正は尾張中村の生まれ、藤吉郎とは幼馴染(母親同士が従姉妹ともいわれる)。秀吉子飼いの武将となり、賤ヶ岳の戦いで功を上げ「賤ヶ岳七本槍」のひとりに数えられる。関が原の戦いでは西軍に付き、徳川の大名として熊本城の初代藩主となっている。

ふたつめは、二之丸庭園から進んで東南隅櫓を見る左側、大きな石の上の立ち姿で槍と扇をもっている。銘は「清正公石曳きの像」となっている。慶長15年(1610)の名古屋城築城に際して、石垣造りに活躍した清正を讃えて建造されたものであろう。

さらにもうひとつ清正にかかわる記念物がある。二之丸から東二之門をくぐったところの巨石「清正石」である。ここは「本丸搦手枡形」といい、裏門から攻める敵方への備えの場所に当たる。この枡形の築造を担当したのは黒田長政であるが、この巨石は城普請の名手清正が運んだのだろうと言い伝えられている。
清正は尾張中村の生まれ、藤吉郎とは幼馴染(母親同士が従姉妹ともいわれる)。秀吉子飼いの武将となり、賤ヶ岳の戦いで功を上げ「賤ヶ岳七本槍」のひとりに数えられる。関が原の戦いでは西軍に付き、徳川の大名として熊本城の初代藩主となっている。

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