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清洲城
清洲城は古い歴史をもつ。室町時代の応永12年(1405)に尾張国の守護職・斯波氏が、下津城(稲沢市)の別邸として建てたのが始まりという。この地は、鎌倉街道と伊勢街道の合流する要衝の地であり、文明8年(1476)に下津城が焼失した後は、清洲が尾張国の中心地となった。
戦国時代の弘治元年(1555)、織田信長が那古野(なごや)城から入城、桶狭間の戦いではこ
の城から出陣したという。今川義元に勝利した後に、この城から天下統一への第一歩を踏み出している。下右の写真は信長の銅像、甲冑に身を固め、桶狭間の方向を睨んでいる。

清洲は、沖積層・濃尾平野の真っ只中、周辺はゆたかで広大な水田地帯が広がっている。東西交通の要でもあり、尾張全体を見渡すことができることから、信長没後も豊臣秀次、福島正則、松平忠吉、徳川義直(名古屋城初代城主)など錚々たる武将が城主となって尾張を治めた。
信長の跡継ぎを決定するための、かの有名な「清洲会議」もこの城で行なわれた。しかし、関が原の合戦の後、大坂方への防御を固めるための城砦として、家康は熱田台地の北西端、名古屋の地を選択した。それは、清洲の地が低湿地にあり、水攻めに弱みをもつからだと言われている。
(下右は発掘された石垣の写真、軟弱な地盤のため松材による頑丈な「梯子胴木」が施されている)

◆今日から元号が変わって「令和」、代替わりを意味する植物名をもつ「ユズリハ」をご紹介します。

戦国時代の弘治元年(1555)、織田信長が那古野(なごや)城から入城、桶狭間の戦いではこ
の城から出陣したという。今川義元に勝利した後に、この城から天下統一への第一歩を踏み出している。下右の写真は信長の銅像、甲冑に身を固め、桶狭間の方向を睨んでいる。

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(下右は発掘された石垣の写真、軟弱な地盤のため松材による頑丈な「梯子胴木」が施されている)

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