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松平東照宮と家康産湯の井戸
豊田の市街地を過ぎ、東に向かって国道301号を走ると矢作川を渡る。左に豊田スタジアムを見ながらさらに進み、東海環状自動車道の高架をくぐると巴川に至る。次第に山が深くなるところに小集落があり、松平郷と呼ぶ。
戦後になって豊田市に編入されるが、明治初めは松平村と名付けられていた。松平は徳川の元の名、ここは松平家・徳川家発祥の地である。松平家初代の親氏がこの地に居を構え、氏神として若宮八幡宮を勧誘したのが始まりで、二代将軍秀忠の時代に神君家康を合祀して「東照宮」となった。

東照宮の周りには、松平氏の居館であった当時からの深い堀が築かれている。後背地は深い山地で、防御の固い館だったと思われる。南面の山を登ったところに松平城の跡がある。北東角の山裾には、こんこんと清水の湧く井戸がある。武家屋敷には必須の水であったのであろう。
天文11年(1542)12月に、家康が岡崎城で生まれた。そのとき、この井戸から水を汲んで竹筒に入れ、岡崎まで早馬で運んで産湯に使ったという伝承が残っている。「家康産湯の井戸」は石柱の柵に囲まれており、立派な門と社により祀られていた。


戦後になって豊田市に編入されるが、明治初めは松平村と名付けられていた。松平は徳川の元の名、ここは松平家・徳川家発祥の地である。松平家初代の親氏がこの地に居を構え、氏神として若宮八幡宮を勧誘したのが始まりで、二代将軍秀忠の時代に神君家康を合祀して「東照宮」となった。

東照宮の周りには、松平氏の居館であった当時からの深い堀が築かれている。後背地は深い山地で、防御の固い館だったと思われる。南面の山を登ったところに松平城の跡がある。北東角の山裾には、こんこんと清水の湧く井戸がある。武家屋敷には必須の水であったのであろう。
天文11年(1542)12月に、家康が岡崎城で生まれた。そのとき、この井戸から水を汲んで竹筒に入れ、岡崎まで早馬で運んで産湯に使ったという伝承が残っている。「家康産湯の井戸」は石柱の柵に囲まれており、立派な門と社により祀られていた。


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