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松坂城跡
松坂城は、秀吉の家臣・蒲生氏郷が天正16年(1588)に築城した。松阪の地は伊勢平野の津と伊勢との中間地にあり、奈良・京都方面へ向かう街道の分岐点に当たる。松坂城は、この交通の要所の小高い「四五百森」(よいほのもり)につくられた平山城である。城跡に立つと、松阪の町並みとその向こうに紀伊の山々を望むことができる。
氏郷が陸奥黒川(今の福島県)に移封された後、何人かの城主が入城した。元和5年(1619)に徳川頼宜が和歌山城主になると、松坂は和歌山藩領となり、18万石を領する城代が置かれていた。この状態は明治になるまで続き、廃藩後の明治14年に松阪公園となって現在に至っている。

城は、本丸・二ノ丸・三ノ丸・隠居丸・きたい丸からなり、三層の天守が聳えていたが正保元年(1644)の台風で倒壊したと伝えられる。その後、天守閣は再建されることはなく、現在は石垣を残すのみである。公園利用者は階段を登り、石垣の上に立つことができるが、全く柵がなく、安全は〝自己責任?”ということになっている。
表門を入った遠見櫓の近くに、個性的な建物がある。明治43年の皇太子行啓を記念して飯南郡図書館として建てられたものである。入母屋造りの二階建てが左右対称にあり、真ん中は唐破風の玄関である。昭和52年に図書館が移転した後は、松阪市立歴史民俗資料館として使用されている。


氏郷が陸奥黒川(今の福島県)に移封された後、何人かの城主が入城した。元和5年(1619)に徳川頼宜が和歌山城主になると、松坂は和歌山藩領となり、18万石を領する城代が置かれていた。この状態は明治になるまで続き、廃藩後の明治14年に松阪公園となって現在に至っている。

城は、本丸・二ノ丸・三ノ丸・隠居丸・きたい丸からなり、三層の天守が聳えていたが正保元年(1644)の台風で倒壊したと伝えられる。その後、天守閣は再建されることはなく、現在は石垣を残すのみである。公園利用者は階段を登り、石垣の上に立つことができるが、全く柵がなく、安全は〝自己責任?”ということになっている。
表門を入った遠見櫓の近くに、個性的な建物がある。明治43年の皇太子行啓を記念して飯南郡図書館として建てられたものである。入母屋造りの二階建てが左右対称にあり、真ん中は唐破風の玄関である。昭和52年に図書館が移転した後は、松阪市立歴史民俗資料館として使用されている。


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