Entries
松坂城「御城番屋敷」
本丸の南東にある裏門を出てしばらく行くと、お城番の屋敷が並んでいる。瓦葺の長屋が二棟、東棟が10戸、西棟は9戸、合わせて19戸である。建物は高い槇(マキ)の生垣で囲まれ、現在も住む人々の生活を、観光客の目から守っている。真ん中の小路は景観を配慮して、電柱はなく石畳が施されている。
西棟の最北の1戸は松阪市が借用し、内部を創建当時の姿に復元して一般公開している。建物は5間×5間、いわゆる「田の字」になっており、裏面に角屋が付随して厠などになっている。築後140年を越え、老朽化も進んでいるので、鉄の円柱と鉄線などで補強が行われていた。

元々の住民の方が案内員として常駐され、細かく説明してくれた。それによると、“紀州藩主から松坂に遣わされた与力(2~300石取りの藩士)が、家老家の陪臣となるように命ぜられたことに抗議して、安政3年(1856)に脱藩して浪人になった。”
“その6年後、藩主の直臣として帰参が許され、40石取りの御城番に就いてこの屋敷を与えられた。” のだという。明治になって住民たちは、合資会社「苗秀社」を設立して建物の維持管理に当たってきた。現在は、国の重要文化財に指定されている。

西棟の最北の1戸は松阪市が借用し、内部を創建当時の姿に復元して一般公開している。建物は5間×5間、いわゆる「田の字」になっており、裏面に角屋が付随して厠などになっている。築後140年を越え、老朽化も進んでいるので、鉄の円柱と鉄線などで補強が行われていた。

元々の住民の方が案内員として常駐され、細かく説明してくれた。それによると、“紀州藩主から松坂に遣わされた与力(2~300石取りの藩士)が、家老家の陪臣となるように命ぜられたことに抗議して、安政3年(1856)に脱藩して浪人になった。”
“その6年後、藩主の直臣として帰参が許され、40石取りの御城番に就いてこの屋敷を与えられた。” のだという。明治になって住民たちは、合資会社「苗秀社」を設立して建物の維持管理に当たってきた。現在は、国の重要文化財に指定されている。

- 関連記事
-
- 中小田井の願王寺 (2019/12/12)
- 松坂城「御城番屋敷」 (2019/11/28)
- 名和昆虫博物館(再掲) (2019/10/27)
コメント
コメントの投稿
トラックバック
- トラックバック URL
- http://chubu-fukken.com/tb.php/587-5c04414b
- この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)