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伊賀上野城の石垣
伊賀上野城は、伊賀盆地の中ほどにある標高約180mの丘の上に築かれている。北・西・南の3方を川に囲まれた要害の地である。もともとはお寺の伽藍があったが、織田の家臣・筒井氏が城塞の大改修を行い、合わせて城下町の建設も行った。
江戸時代になって、藤堂高虎が伊賀・伊勢の領主となった。高虎は、大坂方への備えとして城郭を拡張、特に西方に高い石垣を巡らせた。ただし5層の天守閣は、慶長17年(1612)に襲った大暴風のため、建設途中に倒壊してしまった。その3年後の元和元年には、大坂夏の陣により豊臣氏が滅んでしまったので、天守閣は実現しないまま江戸時代を終えた。(写真は昭和初期に造った模擬天守)

昭和42年に、お城は国の史跡に指定され、近隣一帯は上野公園として整備された。芭蕉を顕彰する「俳聖殿」や「芭蕉翁記念館」、「伊賀流忍者博物館」などがあり、観光地としても利用されている。
築城の名手・藤堂高虎が築いた石垣は高さが30m近くもあり、日本一の高さを大坂城と競っている。その一部が危険になったのか、積み直し工事が行われていた(10年ほど前に撮影)。形の異なる石一つひとつにナンバーが張り付けられていて、元通りの石垣に戻す作業である。

江戸時代になって、藤堂高虎が伊賀・伊勢の領主となった。高虎は、大坂方への備えとして城郭を拡張、特に西方に高い石垣を巡らせた。ただし5層の天守閣は、慶長17年(1612)に襲った大暴風のため、建設途中に倒壊してしまった。その3年後の元和元年には、大坂夏の陣により豊臣氏が滅んでしまったので、天守閣は実現しないまま江戸時代を終えた。(写真は昭和初期に造った模擬天守)

昭和42年に、お城は国の史跡に指定され、近隣一帯は上野公園として整備された。芭蕉を顕彰する「俳聖殿」や「芭蕉翁記念館」、「伊賀流忍者博物館」などがあり、観光地としても利用されている。
築城の名手・藤堂高虎が築いた石垣は高さが30m近くもあり、日本一の高さを大坂城と競っている。その一部が危険になったのか、積み直し工事が行われていた(10年ほど前に撮影)。形の異なる石一つひとつにナンバーが張り付けられていて、元通りの石垣に戻す作業である。

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